曖昧さ回避
- 第一次世界大戦後にフランス海軍が建造した砲艦→フランシス・ガルニエ(砲艦)
- 第二次世界大戦の戦中、イタリア海軍に所属していた植民地通報艦エリトリアが戦時賠償艦扱いでフランス海軍に引き渡された後につけられた艦名→エリトリア(通報艦)
概要
本名は「マリー・ジョゼフ・フランソワ・ガルニエ」。
1839年7月25日、ロワール県サン=テティエンヌに生まれ、1856年に海軍士官学校に入学。
翌年の卒業後、フランス海軍に入り、ブラジル近辺や太平洋への航海を経験。
1860年2月から1861年11月までアロー戦争へ遠征したレオナール・ヴィクトル・シャルネール提督の指揮下に入り、1860年10月の円明園略奪に加わった。
その後いったんフランスに帰国した後にコーチシナに渡り、1863年には前任者のアンリ・リュニエールに代わって、サイゴン(後のホーチミン市)近郊のチョロンにあった華人担当の監督官に任じられた。
そしてガルニエはフランス第二帝政下で海軍・植民地大臣であったプロスペル・ド・シャスルー=ローバ侯爵にメコン川流域の探検を提案し、侯爵はこれを決断する。
しかし、当時のガルニエでは若すぎると判断され、探険隊の指揮権はエルネスト・ドゥダール・ド・ラグレ海軍中佐に委ねられた。
探検隊は1866年6月にピエール=ポール・ド・ラ・グランディエール海軍中将の支援を受けてサイゴンを出発し、メコン川を遡上した。ガルニエは、雲南における回民反乱(パンゼーの乱)が建てた「スルターン・スレイマン政権」の本拠地大理への分遣隊の指揮者に志願し、この任務を成功させた。探検の途中、探検隊の指揮権を握っていたラグレが雲南の東川で病死すると、ガルニエは当然のように指揮を引き継ぎ、一行を無事に長江(当時ヨーロッパでは「揚子江」と称されていた)まで導き、上海へと到達させた。
フランスへと帰国したガルニエはメコン川探検の功績から1870年に、ガルニエがロンドンの王立地理学会から金メダル(パトロンズ・メダル)を授与された。
その後、コーチシナに戻ったガルニエは、当地の政治的情勢が、更に探険を進めるには好ましくない状況にあることを察して清へと渡り、妻と共に上海に移り住んだ。1873年には長江上流部を遡行して滝線へと至った。
1873年の遅い時期、コーチシナ総督マリー・ジュール・デュプレ提督の命を受けたガルニエは、阮朝大南当局とフランス商人のジャン・デュピュイの間に起こっていた揉め事を解決するために、トンキンへ派遣された。事に乗じてトンキンを占領する機は熟していると確信したガルニエは、トンキンの首府だったハノイを1873年11月20日に占領した(トンキン事変)。
続く数週間にわたって、ガルニエが指揮した少数のフランス軍は紅河デルタの城砦の大部分を支配下に収めた。自らの軍事力でフランス軍に対抗することを断念した大南は、清出身の傭兵隊である劉永福の黒旗軍の派遣を要請した。
そして劉永福に攻められ、ハノイの西門にて戦死。ガルニエの死により、フランス軍による最初のトンキン支配の企みは潰え去った。
ガルニエの遺骸はサイゴンに移送され、マッシージュ通りの墓地に埋葬された。