戦争目的
インドネシア | インドネシア共和国の独立認証。 |
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オランダ | インドネシアの再植民地化。 |
解説
インドネシアは17世紀からオランダの植民地下に置かれていたが、20世紀に大日本帝国は米 英 中との対立の末、国家存亡を賭け大東亜戦争に踏み切った。
日本は資源確保による国家防衛と、アジア諸国の植民地解放を目的に掲げ、アジア各地の欧米の植民地地域を攻撃し、インドネシアも欧米支配から解放し、大東亜共栄圏に組み込んで独立を促した。
経緯
蘭印作戦
1942年3月、ジャワ島に上陸した日本軍は、3万人のオランダ・イギリス連合軍が立て籠もるバンドン要塞をあっという間に攻略し、最終的には今村均中将が率いる第16軍など、総兵力5万5000人によるわずか10日間の戦闘でインドネシア全域を制圧して8万人以上の敵兵を捕虜にした。
日本軍はインドネシア占領とともに、1942年12月、大東亜戦争1周年を記念してプートラ運動を開始した。これは民間の総力を結集させて防衛に当たらせようというもので、全国に4000の支部をつくり、56万の青年を団員とする大組織となった。
独立支援
青年団員は訓練を終えると地方防衛の警防団の団員となる。その団員数は130万人にも上った。警防団の軍事訓練を受けた者によってさらにインドネシア・ジャワ義勇軍(PETA、祖国防衛義勇軍)が編成された。PETAの教育は柳川宗成大尉が隊長を務めて行われ、「サンパイ・マテイ!」(死ぬまでやろう)を合言葉とし、日本語による号令で、日本の歩兵操典に基づく日本式スパルタ教育がなされた。
終戦後
1945年8月にインドネシアの独立が予定されていたが、直前に日本はアメリカに降伏、第二次大戦が終結して日本軍政当局の主導による独立準備が中止されると、日本から援助を受けていた指導者スカルノは自分たちでインドネシア共和国の独立を宣言する(インドネシア独立宣言)。
しかしオランダはインドネシアの独立を認めず、再支配を目論んで侵攻。これに対し、前述の通り日本軍から軍事訓練を受けていたインドネシア人や事情(インドネシアとの「共に生き、共に死す」の誓い・戦勝国への対抗心・占領下の日本に帰国して戦犯になることを回避するため等)により独立派に身を投じた残留旧日本軍兵士が抵抗運動を開始し、情勢は一気に独立戦争へとなだれ込んでいった。また、この時に使われた言葉「ムルデカ」は独立を意味し、彼らの合言葉となった。
独立
イギリスもオランダに味方し、オランダは共和国の臨時首都を陥落するなど軍事的には遥かに優勢であったものの、残留日本軍兵士と彼らの教え子である祖国防衛義勇軍PETAの兵士が中心となったインドネシア軍による、4年に渡る激しい戦闘による抵抗と、粘り強い交渉の末に、国際世論の非難と経済的理由も重なって、ついに英蘭軍は継戦をあきらめて撤退。1949年に国連介入によりハーグ協定が結ばれ、オランダはインドネシア独立を承認。インドネシア連邦共和国が成立した。
残留日本兵
インドネシア軍に協力
戦争初期、連合軍は日本政府を通じて現地残留日本軍に独立派への武器の横流しを禁じ、現状維持のまま連合国軍へ引き渡すように命じていたため、武器引渡しを巡る対立や治安出動で1945年10月には現地日本軍部隊と独立派との武力衝突(スマラン事件など)が起きて双方に多数の死者が出ている。
しかし敢えて武器を横流しするなどして独立派へと加勢した旧日本兵も多く、1947年の日本人引き揚げ後も残留してインドネシア軍と共に戦った日本兵は約2000人近くにも達した。また、この戦争において旧日本軍兵士は、実戦経験の浅かったインドネシア軍兵士達を先導するために多くが前衛に出ていたため、その半数であるおよそ1000人が戦死した。
独立の英雄
協力した旧日本兵は占領下にあった当時の日本政府から「現地逃亡兵」として扱われたため、まだ見つかっていない詳細な記録もあると言われているが、戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。インドネシア政府からビンタン・ゲリリャ(ゲリラ戦士勲章)を贈られた者も多数存在する。
インドネシアは独立後、日本人兵士による貢献を決して忘れることのないよう、国軍最高のナラリア勲章を日本人兵士6人に贈った。
その後の1960年代、日本企業の本格的なインドネシア進出が始まった頃、 両国間の橋渡しの役割を果たしたのは、これら独立戦争を戦った元日本兵たちであった。
映画
2001年にはこの戦争を題材として日本・インドネシア合作映画『ムルデカ17805』が制作されている。
2009年から制作されている映画『Merah Putih』(インドネシア語で紅白を意味)。今までにシリーズで3作が作られている。