ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

ギリシア独立戦争

ぎりしあどくりつせんそう

ギリシア独立戦争はギリシャがオスマン帝国からの独立を巡り争った戦争。1821年。
目次 [非表示]

概要編集

 この戦争ギリシャ語表記ではΕλληνική Επανάσταση του 1821と呼ばれ、1821年のギリシャ革命と呼ばれる。

 オスマン帝国からのギリシャ独立を巡り争われ、ギリシャ軍が有利であった1821年から1825年を第一期とし、1825年から1827年を第二期とする分類が行われる。

 結果として列強の干渉によりギリシャの独立が確定した。

 ただし、その後のバルカン半島が火薬樽化となるきっかけともなり、これは第一次世界大戦まで続くこととなる。

それまでの状況編集

 15世紀までにはイスラム教を国教とするオスマン帝国がバルカン半島を支配するようになり、ギリシャもまた彼らの支配下にあったが、彼らには信仰の自由は存在したり、過酷な支配ではなかったものの、参政権などを認められない状況であった。

 ところが18世紀に入るとヨーロッパの近代化の影響もありオスマン帝国は次第に劣勢となり、力関係は逆転、ロシア帝国などに侵略される立場となり、さらにはオスマン帝国を崩壊させる、あるいは無力化させる試みも行われるようになった。

 また、ヨーロッパにおける古代ギリシャ文化の再評価や啓蒙思想の伝播などもこの戦争の下地ともなっている。

 さらにフランス革命の影響によりイオニア七島連邦国( 1800年-1815年、ギリシャ西部のにできた国、列強の保護国であったが、一応ギリシャ人の国 )の成立やバルカン半島セルビアにおいて1804年、住民の蜂起が発生、子の蜂起の結果1817年にセルビア公国として自治権を獲得することもあり、ギリシャにおいても否が応にも自治権の確保が望まれるようになった。

 むろんこの流れをオスマン帝国は手をこまねいて見ていたわけではなかったものの、統治権を強化しようとして当時領主としてギリシャを支配していたテペデレンリ・アリー・パシャと武力紛争を起こし、戦力の空白が生まれたことも原因の一つであるとされる。

戦争の流れ編集

第一期編集

 フィリキ・エテリア( ギリシャの独立を目的とした秘密結社、革命の引き金を引くも[[ロシアからも見捨てられ )が戦力の空白をみて蜂起を起こす。彼らはロシア国境からバルカン半島にわたり、モルドバ、ワラキアで革命を宣言、それにより数々の秘密結社が呼応して武力蜂起が発生。

 3月25日には聖ラヴラ修道院において「自由か、さもなくば死か」と戦いの宣誓ののち革命政府が開設される。そして6月にかけて全土に広がる。

 これに対しオスマン帝国のスルタン( イスラム教において神に由来する権威という名前を持つものであり、世俗的な王として扱われる )はジハードの準備の命令を出し、正教会の教主や支配層などを虐殺した。

 革命軍側も利害関係が一致せず、数も少なかったものの地形による利を生かしたり、ヨーロッパからの義勇軍などにも頼り、数に勝るオスマン帝国側と戦っていき、勝利することもあった。

 ところが、革命軍側も意見が一致せず、場合によっては内戦となったり、逆にオスマン帝国側に寝返りを打つ場合も存在した。

 またヨーロッパは当初内政不干渉をたたており、列強に関しては他国が抜け駆けして利権をえる可能性を考え、疑心暗鬼になっていた。

第二期編集

 そうこうしているときにオスマン帝国エジプトの領主であったムハンマド・アリーにかなりの好条件をもって援軍を頼む。

 彼はかなり役に立ったものの、彼の活躍により逆にヨーロッパの興味を引くことになる。戦争の前後にイギリスの体制が変わり、積極的に革命を支持する状況になっていた。

 ロシア帝国は経緯から、フランスエジプトと近いためギリシャ側に嫌われたため、イギリス主導により話は進められることとなった。

 その内容はギリシャを自治国とする、というものであり、ペルブルク議定書、のちにロンドン条約としてまとめられ、戦争の介入が開始された。

 これによりロシアを恐れたオスマン帝国は部隊を北部に移動させ、そのすきに革命軍は占領を開始した。

その後編集

 いったんは自治領として認められるはずであったが、1828年、ナヴァリノの海戦( 英仏露連合艦隊がオスマン帝国・エジプト連合艦隊に使者の派遣をもくろんだところ発砲されたため近距離で砲撃戦が発生、結果オスマン帝国艦隊は壊滅状態となった。なおこの戦いは最後の帆走主力艦同士の戦いである )の件に抗議するため、条約を破棄、そのためロシア帝国オスマン帝国と戦争を開始、露土戦争が始まる。

 この件によりイギリスおよびフランスはバルカン半島におけるロシアの勢力が強くなることを危惧したため、ギリシャを自治国ではなく完全な独立を与えることにし、オスマン帝国には賠償金をもってそれを認めさせることにした。

 そして1830年、ロンドン議定書が締結されたことでギリシャの独立が決定されたが、これはギリシャ国民が決めたことではなく、列強の都合により決定された状況( 例えばヨーロッパから関係のない国王を連れてきて王国とするなど )であったため、その後のしこりも残り、またトルコとギリシャの間にはまだ民族領土の問題が残り、さらにギリシャ自体も不安定な状況となっていた。

関連項目編集

歴史 西洋史 独立戦争 ギリシャ

ヨーロッパ アジア 戦争

参照編集

wikipedia:同項目およびリンク先

関連記事

親記事

独立戦争 どくりつせんそう

兄弟記事

コメント

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました