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ロジェストヴェンスキー

ろじぇすとゔぇんすきー

ロシアの人名、あるいはそれに由来するキャラクター名。多くの場合は日露戦争におけるロシア海軍のバルチック艦隊を率いた提督(トップ画像左の人物)を指すことが多い。
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以下、日本海海戦においてロシア海軍バルチック艦隊を率いた提督について記載する。


概要

フルネームはジノヴィー・ペトローヴィッチ・ロジェストヴェンスキー

日露戦争終盤の日本海海戦においてはるばるロシア本土からバルチック艦隊(正式名は第二・第三太平洋艦隊)を率いて長駆日本近海まで遠征したが、東郷平八郎率いる連合艦隊に敗北した提督として知られている。

日本海海戦での敗北、および日露戦争前後について描いた司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」での描写からロシア側が負けるべくして負けることとなった原因の愚将の一人として認識されがちだが、近年直筆の手紙が発見されたことで再評価が進んでいる人物である。


略歴

1848年10月30日、軍医の家に生まれる。なお、ロジェストヴェンスキー家は貴族では無かったが、彼は64年に海軍幼年学校に入学し、卒業後中尉の階級を与えられたことから軍人としてのキャリアを始めた。

1877年、露土戦争に従軍。その際の勲功により聖ウラジミール勲章と四等ゲオルギー勲章を授かる。

1883年、ブルガリア海軍が新設される事に伴い、ブルガリア海軍に出向してブルガリア海軍司令官に就任して1885年まで務め、その後はロシア海軍に戻る。

1891年から1893年までのロンドンでの海軍武官を経て、1894年には地中海艦隊所属の装甲巡洋艦"ウラジミール・モノマフ"艦長に就任。なお、奇しくも当時の地中海艦隊司令官はのちに旅順艦隊(第一太平洋艦隊)を指揮したステパン・マカロフだった。

1898年、少将に昇進。バルチック艦隊の教育砲術支隊司令官に任命される。

1903年、海軍参謀総長を歴任。時の皇帝ニコライ2世からは侍従武官を務めたことから篤く信頼されていた。

1904年、日露戦争が勃発すると遼東半島の軍港・旅順で戦う第一太平洋艦隊(旅順艦隊)援護のための艦隊派遣を皇帝に提案。これを受け入れられ、第二太平洋艦隊(バルチック艦隊)の指揮を任される。当時はまだ少将(第一太平洋艦隊の指揮官だったマカロフは中将だったので、ロジェストヴェンスキーの方が格下だった)だったが、司令長官任命後に中将に昇進した。

1904年10月15日、バルチック艦隊を引き連れリバウ軍港を出航するも、イギリス漁船への誤認砲撃(ドッガー・バンク事件)や日英同盟に伴うイギリスからの圧力と同盟国フランスとの協力体制のズレなどから遠征は遅れて行き、艦隊の到着を待たず翌1905年1月1日旅順要塞は陥落、旅順艦隊も壊滅してしまう。それでも上層部の決定に従いバルチック艦隊は航海を続け、本国からの増援として派遣された旧式艦からなる第三太平洋艦隊(ネボガトフ少将指揮)と合流のうえ、ウラジオストクへと向かった。

5月27日、バルチック艦隊は連合艦隊に発見され、「日本海海戦」が起きる。この時、連合艦隊の砲撃により旗艦クニャージ・スヴォーロフが大破(のちに沈没)、ロジェストヴェンスキー自身も艦橋への命中弾に巻き込まれ重傷を負う。スヴォーロフが航行困難であることを知ると付近を航行していた駆逐艦ブイヌイ、のちに駆逐艦ベドーヴイに移乗しウラジオストクへと向かうが、日本の駆逐艦に発見されベドーヴイは拿捕、ロジェストウェンスキーも同行していた幕僚もろとも捕虜となった。かなりの重体であったため、その身柄はすぐに佐世保の海軍病院に送られた。

終戦後の1906年、第三太平洋艦隊司令官ネボガトフともども軍事裁判にかけられるも、処分は少将への降格に留まった。

1909年1月1日、日本海海戦での傷が悪化し病死、享年60。



後世での評価と再評価の動き

坂の上の雲」において

一言で言うと短気かつプライドばかりが高い宮廷軍人。艦隊の水兵をがむしゃらに訓練したり、神経質になって些細なことで騒動を起こす各艦の水兵の様子に毎度腹を立て、口うるさく風紀粛清を自ら取り仕切るなど、愚将のお手本のように描かれている。

これは、バルチック艦隊遠征の様子が艦隊に随行した技術将校であるポリトゥスキーという人物の日記をもとに描かれたことから、ポリトゥスキーの主観が多分に含まれているためであると考えられる。

また、「坂の上の雲」はどちらかというと第三太平洋艦隊司令官ネボガトフ少将を「熟練の船乗りながら、圧倒的な兵力差を認めて味方の兵士の命を救うために泣く泣く降伏した悲劇の提督」のようにヒロイックに描いたこともあり、より一層ロジェストヴェンスキーの酷さが際立つ原因ともなっている。


2007年の自筆書簡発見

「坂の上の雲」発表からおよそ40年後の2007年、遠征中に家族に宛てた31通もの自筆書簡が見つかり彼の人となりが見直される契機となった。

この書簡ではバルチック艦隊の状況を的確に判断しており、「勝ち目のない戦」であることを自覚していたなど、「坂の上の雲」で描かれた「愚将」とはかけ離れた姿が浮かび上がった。


実際、ロジェストヴェンスキーは旧式艦で構成される第三太平洋艦隊との合流は「無用である」とロシア海軍上層部に何度も訴えている

この第三太平洋艦隊を編成して送るロシア上層部の考えは、第二太平洋艦隊の戦闘力に対する彼等の過剰なまでの信頼を元にしており、これらの戦力を加えれば日本海軍との一大海上決戦での勝利を更に確実に出来るというものであった。

この考えに対しては第三太平洋艦隊の艦艇は旧式艦が大多数を占め、武装も旧式で、更に最大速力は15ノット前後のものが多く、同じように旧式艦が多いとはいえ新造艦もあった第二太平洋艦隊本隊に比べると明らかに速力で劣っており、第三太平洋艦隊に合わせて速度を落とさざるを得ないという足枷は優速な日本艦隊に対して、海戦においては砲門数が多くなることで僅かに戦力が上がるだけに対して、艦隊運動では頭を抑えられイニシアティブを取られてしまう割に合わないものである事を意味していた。

そして、それ以前に、ロシア海軍にとっては「戦艦をウラジオストクに速やかに回航する事」が重要だった。例え一隻でも回航できれば現存艦隊主義で日本海軍に少なくない脅威を与えることができる上、数隻だったら通商破壊も試みることができるからである。それには旅順攻囲で疲弊した日本艦隊に戦力を回復する時間を与えない為にも火急速やかにウラジオストックへ向かう事、これがロジェストヴェンスキー提督が取り得たウラジオストックへ戦力をある程度は維持して入港できる可能性が残された最後のチャンスでもあった。

事実、第二太平洋艦隊は合流のため東南アジア沖で25日間もの足止めを食らうなど、一刻も早くウラジオストクへ急行したいバルチック艦隊首脳陣にとっては頭痛の種であった。自身の訴えが海軍上層部に聞き届けられなかったロジェストヴェンスキーは、その際に本国に「第三太平洋艦隊を待たずにウラジオストクに急行したい」と打電したが、いずれも認められることはなかった。

そして貴重な時間が失われ最後のチャンスを逃した第二太平洋艦隊が第三太平洋艦隊と共に、その失われた時間の間に万全の体制で待ち受ける事が出来た日本連合艦隊を前にどのような運命を辿ったかは歴史の示すとおりである。


このような点からも、「ヒステリックな愚将」ではなく「分別をわきまえたかなり有能な提督」という認識に変わりつつある。


実際の功罪・人となり

遥々遠征したにもかかわらず惨敗した敗軍の将というイメージが先行しがちだが、先述の通り日英同盟を理由にあらゆる手段で妨害をしてきたイギリスや陸戦で連戦連敗による世論の日本側への変化により、あらゆる意味でバルチック艦隊は出航の時点で詰んでいたともいえる状態であり、敗北の責任を彼一人に負わせるのは不適当だろう。

逆に、そんな逆境にもめげず一隻も落伍する艦艇を出すことなくてんでバラバラな艦隊をまとめ上げて地球を半周したという点では彼もまた英傑と言えるかもしれない


また、中尉時代に上官に勇敢で優秀と評されると共に「とても神経質」と評された事からもポリトゥスキーなどが記したように癇癪持ちめいたヒステリックで粗暴な言動を行う一面もあったと思われるが、露土戦争で砲艦ベスタが大損害を受けながらもトルコ海軍の戦艦フェティビュレンドを撃退した折に砲の指揮を執った戦功で四等ゲオルギー勲章を得るも、これはロシア海軍がベスタの戦いを英雄的行為に仕立てあげたようで、それが不満だったのか一年後に新聞に海軍の技術的後進ぶりを批判し、建造の重点を戦艦に置くべきと記すと共にベスタでは相手から逃げただけで英雄的な戦いではないと自身の戦功を否定する記事を書く反骨ぶりを見せ、教育支隊司令時代にはロシアの貴族主義を「有能な人材発見の妨げになる」と厳しく非難していた(先述の通りロジェストヴェンスキー自身は将校の中では珍しい貴族出身でない将校だった)り、佐世保の海軍病院に入院中にわざわざ見舞いに訪れた敵将・東郷平八郎の丁寧な物腰に感銘を受け亡くなるまで彼を尊敬し続けたり、裁判においては敗戦の責任を認め、本人は重傷で意識朦朧としていたにもかかわらず駆逐艦ベドーヴィを降伏させたのは自らの意志であり「(艦艇を降伏させた)責任は私とネボガトフのみにある」と証言し共に裁判にかけられた幕僚達を庇ったとする残された逸話からも、一国の大艦隊を任されるに足る人物であったのは間違いないだろう。


関連タグ

ロシア海軍 日露戦争 日本海海戦 バルチック艦隊 提督


  • 司馬史観:ある意味では彼もこれの犠牲者かもしれない。

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