日本
西村艦隊(スリガオ海峡1944年)
司令長官:西村祥治中将
レイテ沖海戦での日本軍参加艦隊はそれぞれが指揮官の名前を取った名称で有名だが、正式名称は第一遊撃部隊第三部隊。
1944年9月10日、廃止されていた第二戦隊が戦艦山城、扶桑によって新たに編成され、西村祥治中将が司令官に就任し山城がその旗艦となった。
23日に第十七駆逐隊の護衛のもと、独立混成第25旅団を乗せ柱島を出撃し、10月4日にリンガで第二艦隊と合流した。
この折に軍令部と第一機動艦隊との間の話し合いで第一戦隊の戦艦大和、武蔵の高速を活かし戦術に幅を持たせる為に鈍足の戦艦長門を戦隊から外して第二戦隊に編入するという案もあったが、第一戦隊司令官宇垣纏中将の反対でならなかったという。また第二艦隊には第二戦隊は上から押し付けられたという空気があり、それがレイテ沖海戦にて第二艦隊から分派される理由となったというものもある。
18日に第二艦隊はリンガを発し20日にブルネイに進出した。22日、第二艦隊の第一遊撃部隊第一・第二部隊が出撃して七時間後の15時に重巡洋艦最上を加えた第二戦隊を基幹に第四駆逐隊の駆逐艦満潮、朝雲、山雲、第二十七駆逐隊の駆逐艦時雨からなる第一遊撃部隊第三部隊はブルネイを出撃した。20日にレイテ湾に上陸したアメリカ軍輸送船団を南から進撃して北からの第一遊撃部隊主力と挟撃して叩くという作戦であり、フィリピン陥落は南方からの石油などの資源を送るシーレーンが絶たれる事を意味し、その阻止の為には艦隊を磨り潰すことも辞さないという軍令部の決意の表れでもあった。
だが、第二戦隊ですら訓練に充分な時間を取れず、第三部隊に至っては21日に編成されたばかりで合同訓練など出来る筈もなく、艦隊が何処まで期待されているのかは疑問であった。
24日の2時頃に艦隊は最上より水上偵察機を出し、7時過ぎにはそれからレイテに総計戦艦4隻、巡洋艦2隻、駆逐艦6隻、水上機母艦1隻、魚雷艇14隻、輸送船80隻ありとの報告電を受けた。(実際は戦艦6隻、巡洋艦8隻、駆逐艦22隻、魚雷艇39隻)
9時25分頃に艦隊は27機のSB2Cヘルダイバー艦上爆撃機の攻撃を受けたが扶桑が艦尾カタパルトに爆弾一発が命中して水偵2機が炎上し、最上が機銃掃射で8名の死傷者を出したものの被害はそれだけに留まり、以後レイテ突入まで艦隊は空襲を一度も受ける事なくほぼ予定通りの順調な航海を続けた。
勿論、それには理由があり、ウィリアム・ハルゼー大将率いる第三艦隊は第一遊撃部隊主力への空襲に全力を投じてていた為であり、その激しさに遊撃部隊主力が反転した事を西村提督は知っていた。
提督は14時10分に艦隊の位置を、20時頃にはスリガオ海峡まで残り四時間あまりの海域で25日の4時頃にレイテに突入する予定の旨を打電し遊撃部隊主力を率いる第二艦隊司令長官栗田健男中将の指示を待ったが、主力の突入が25日の11時頃になる事と第三部隊には予定通りの突入後に25日9時頃にスルアン島北東で遊撃部隊主力と合流するよう求めた返電が艦隊に届いたのは22時42分であり、既にその頃には交戦は始まろうとしていた。
19時頃に艦隊は最上と第四駆逐隊を分派し、偵察機から報告のあった魚雷艇に対する露払いをさせるべく先行させた。
23時頃、艦隊の本隊は接触してきた魚雷艇3隻全てに被弾させ撃退し、30分頃には分派した最上をはじめとする掃射隊も折からの激しいスコールのなか魚雷艇3隻と交戦。
25日1時25分に本隊はスリガオ海峡南口に到着。悪天候下での魚雷艇との夜戦は不利と判断した掃射隊も35分頃に合流し、艦隊は満潮、朝雲、山城、扶桑、最上が単縦陣をとり、右舷に山雲、左舷に時雨を配置した隊形で突入を開始した。
その後も魚雷艇三個小隊の攻撃を受けるも1隻を被弾させ、攻撃も撃退し無傷のまま艦隊は前進を続けた。
次に2時53分に時雨が右舷前方に敵駆逐艦を発見。西村提督は魚雷に対する回避行動を容易にする為に山雲、時雨を満潮・朝雲に後続させ、先頭から駆逐艦・戦艦・最上と横から見れば単縦陣に見えるようにずらした三列縦隊に隊形変更した。そして駆逐艦に対して艦隊は射撃を行い3時頃撃退し、その後、最上は後方からの魚雷艇隊とも交戦を始めたが、右舷からの魚雷を発見、回避した。撃退したと思われた3隻の駆逐艦が遠距離から放った魚雷であった。
だが、扶桑は回避できずに3時10分に右舷中部に魚雷を受け、脱落した後には船足も停まり火達磨になって30分後には大爆発を起して船体を真っ二つに折り、艦首は04時20分頃、艦尾は5時20分頃に沈んだという。
一方、最初の敵駆逐艦の退避後、再び時雨が左舷に敵駆逐艦を発見し、山雲は雷跡を発見。西村提督はこれを回避すべく右舷90度の一斉回頭を行わせながら2隻の駆逐艦に射撃を浴びせたが、前回と同様に視界の悪さもあり被弾させる事は出来なかった。2分後に西村提督は艦隊の針路を元に戻したが、それは早過ぎ、左舷から襲い来る魚雷を発見して左舷45度の緊急一斉回頭を命じた時には手遅れであり、山雲が轟沈。満潮は左舷機関室被雷で航行不能、朝雲は艦首を切断され漂流、旗艦山城も左舷後部に被雷し、誘爆を防ぐ為に五・六番主砲火薬庫に注水が命じられ主砲の三分の一が使用不可能となる大打撃を艦隊は被った。
次に6隻の駆逐艦の攻撃がなされ山城は再び左舷中央に一本魚雷を被雷し、満潮は止めの魚雷を浴びせられ轟沈していた。
西村提督は「我、魚雷を受く。各艦は前進して敵艦を攻撃すべし」との命令を発したが、山城は速力が低下したものの、その後はダメージコントロールのよろしきを得てかなりの速度を回復し、今や3隻となった艦隊の旗艦として遮二無二前進を続けていた。
45分にはまた新たな駆逐艦が発見され51分には砲撃命令が下されたが、同時に左舷前方より砲撃を艦隊は受けた。
この砲撃は14000mの距離から加えられた巡洋艦8隻によるもので、予定と違い味方駆逐艦が未だに攻撃しているなか行われたものであり、2分後には更に日本艦隊を捉える事が出来なかった戦艦ペンシルヴァニアを除く5隻の戦艦も20520mの距離から砲撃を始めていた。
これに対して山城、最上は閃光を頼りに反撃し、巡洋艦3隻を夾叉したものの山城にも巡洋艦の榴弾の被弾が相次ぎ、さながら日本海海戦での下瀬火薬のように火災が発生して3、4番砲塔が破壊され、今や使用可能な砲は1、2番砲塔のみとなり炎上していたが、それでも尚も前進を続けていた。
そんな山城に再び二隊計駆逐艦6隻が魚雷を発射し、最初の3隻の魚雷は外れたものの、次のそれは右舷に2本命中して遂に前進は停まり、「我、航行不能。各艦は扶桑艦長の指揮のもとレイテ湾に突入せよ」と山城の艦橋から信号が発せられたのを最上は目撃したという。西村提督は扶桑が既に撃破された事を知らず、更に扶桑と山城を誤認していた時雨艦長西野繁少佐からの電話で未だに扶桑は健在だと信じていたようである。やがて山城は大爆発を起こし艦橋が崩れ落ちたが、それでも主砲は未だに反撃を行っていたという。そして傾斜する艦内では艦長の篠田勝清少将により総員退去命令が発せられたが、それより2分後の4時19分頃に転覆して艦尾から海中に没したという。
最上もまた山城同様に被弾で炎上し、左舷機関室は停止。更に艦橋に2発も命中弾を受け艦長の藤間良大佐をはじめ艦首脳陣が壊滅。人力操舵に切り替え、残った先任将校である砲術長荒井義一郎少佐の指揮の下に戦場を離脱した。
また無事な艦が既に自艦だけなのを知った時雨も艦尾に不発弾を受けたものの人力操舵で戦場を離脱していた。
この頃に米側も駆逐艦グラントが敵と味方の誤射で18発被弾し乗組員半数あまりが死傷する損害を受けており彼女の救援状況を確認するまで10分ほど射撃を停止していた事も両艦の撤退に利した。
その後、志摩清英中将指揮する第五艦隊からなる第二遊撃部隊が戦場に到着したが、最上の荒井少佐も時雨の西野艦長も味方が後方から進撃している事を知らず驚いたという。また、この折に魚雷を発射して回頭した志摩提督の旗艦那智が8ノットで航行している最上を停止しているものと誤認して彼女の右舷前部に衝突し、艦首が潰れ速力18ノットに低下するアクシデントが生じている。
西村艦隊の壊滅を知った志摩提督は艦隊を反転させ、最上と朝雲もそれに従ったが、時雨は命令系統が違うとして単独で南下していった。
5時頃には最上の操舵装置も修復し速力も12ノットとなり、また朝雲も同速力を出せるまでに回復していた。だが20分頃に追撃してきたジェシー・オルデンドルフ少将率いる巡洋艦5隻と駆逐艦隊の攻撃を受け最上は10発を被弾、朝雲も5発被弾した。だが、オルデンドルフ提督も魚雷を警戒して5分間の砲撃の後に引き上げた。
しかし、朝雲は火災も生じて手の施しようが無く、総員退去の後に放棄された彼女はオルデンドルフ提督が派遣した巡洋艦2隻、駆逐艦3隻に7時21分に処分された。
最上は海峡を脱し、そこで先行する志摩提督から駆逐艦曙を護衛につけられコロンへと向かうが、7時30分頃敵機4機の攻撃を受け、これはかわすも8時30分頃に機関が停止し、9時頃に再度17機の空襲を受け艦尾と第一砲塔付近に2発の命中弾を受け前部が炎上。弾薬庫誘爆の危険がある事から総員退去となり、曙に魚雷処分され13時7分に海中に姿を消した。
こうして、西村提督以下多大な死傷者を出し、時雨のみを残して艦隊は全滅した。(スリガオ海峡海戦)
西村提督の采配には疑問をつけられる事が特に米側では多い。だが、戦後、小沢治三郎提督の言った「レイテで真剣に戦ったのは西村だけだ」の言葉がこの海戦の真実を伝えているのかも知れない。
第二艦隊(坊ノ岬1945年)
司令長官:伊藤整一中将
1945年3月28日17時30分に第二艦隊司令長官伊藤整一中将直卒の第一航空戦隊所属の旗艦戦艦大和は呉を出港し、三田尻沖に夕刻、錨を下した。
26日には沖縄は慶良間列島にアメリカ軍が上陸し、連合艦隊司令部は沖縄に上陸するであろう連合軍迎撃の「天一号作戦」を発動し、大和を佐世保に進出させる為の措置であった。
連合艦隊司令部は当初は沖縄に上陸するアメリカ軍に対して航空戦が優勢な状態になるならば、第二艦隊を残敵殲滅の為に出撃させる計画であった。だが、計画はレイテ沖海戦の第三艦隊と同じ囮となる事に変更された。その内容は大和を佐世保に進出すれば夕刻に出撃してもその日のうちに沖縄に到着する事からアメリカ側には脅威となり、これを撃滅するためにもアメリカ機動部隊は北上してくるが、それに対して第二艦隊は基地の対空砲火も得られ、また第五航空艦隊も航続距離の短い機体も迎撃に使える地の利を得る事となり、優位に戦えるというものであった。
フィリピンを抑えられて南方からの海上交通が寸断され、戦艦長門などの大型主力艦に燃料を割けない程に燃料事情が悪いなか、残された艦艇を如何に有効に活用するかという連合艦隊苦肉の策と言えたが、それに対して第五航空艦隊司令長官宇垣纏中将は残敵殲滅なら兎も角、そんな小細工は笑止千万とし、燃料事情からも内海待機が妥当と日記に記している。
しかし、事態は急変する。
同日に宮内に参内し、昭和天皇に沖縄に上陸する連合軍への航空機による特攻作戦での迎撃を説明した軍令部総長及川古志郎大将に陛下より「海軍にはもう艦はないのか、海上部隊はないのか」とのご下問があり、これを受けた連合艦隊司令長官豊田副武大将は「畏れ多き言葉を拝し、恐懼に堪へず」」と陛下の心を安んじる為に連合艦隊司令長官以下全将兵討死の覚悟でいかなる事であろうと「天一号作戦の完遂を期すべし」との緊急電報を天一号作戦各参加部隊に送る事態となった。
4月1日にアメリカ軍は沖縄本島に上陸。北・中飛行場が早くも同日に占拠される事態に大本営は沖縄の第三十二軍に8日の反攻を要望し、それに呼応するために連合艦隊より第二艦隊に菊一号作戦が指示され、5日13時59分には「第一遊撃部隊は海上特攻として八日黎明沖縄に突入を目途とし急遽出撃準備を完成すべし」との命が発せられ、早くも15時には「海上特攻隊はY-1日黎明時豊後水道出撃、Y日黎明時沖縄西方海面に突入、敵水上艦艇並びに輸送船団を攻撃撃滅すべし。Y日を八日とす」との命が下された。第二艦隊を中核とする第一遊撃隊は戦艦大和と第二水雷戦隊の旗艦軽巡洋艦矢矧と艦隊側の要請で6隻から8隻に増強された駆逐艦の10隻であった。作戦立案者はエキセントリックな言動で知られる神重徳大佐であったと言われ、連合艦隊参謀長草鹿龍之介中将は神参謀が鹿屋に出張して留守の間に自分を通さずに豊田長官に決済を貰った、自分は反対だったと後に述べているが、神参謀だけで作戦が遂行できる筈はなく連合艦隊司令部がこの作戦に賛成だったと言われる。
この作戦に軍令部次長小沢治三郎中将も「連合艦隊長官がそうしたいという決意ならよかろう」と了承を与え、作戦は動き出したのだった。
大和ではまず准士官以上の将校に連合艦隊命令が艦長の有賀幸作大佐より伝達され、その後、前甲板に総員を集合させ連合艦隊命令を有賀艦長は皆に伝えた。そして出撃準備にとりかかった。
第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将は矢矧のレーダーが旧式の為に新型に交換するよう要望したが特攻兵器の生産が優先され却下となり、矢矧艦長原為一大佐を中央に派遣して要望するも同じく却下された状態だったために出撃はまだ先と思っていた事もあり、充分な整備もさせず、更に片道燃料しか用意しようとしなかった事に後に不満を述べている。また急な出撃命令に間に合わせる為に暗号解読時間を省く為に平文で出撃準備の為の電報も打たれ、ある通信兵はこれで敵には丸わかりだと思ったという。
大和では日没後の18時、そして各艦でも酒保が開かれ乗組員に酒が配られ、宴が開かれた。
また6日の2時頃には海軍兵学校、経理学校を卒業したばかりの少尉候補生73名も戦闘に不慣れな補充兵十数名と重症者と共に艦隊より降ろされた。この折に海兵74期の十数名は有賀艦長に艦に残してもらえるように直訴したが「残って奉公するのも国の為だ」と説得されたという。
この日の夜明けには燃料補給も始まっており、連合艦隊からは6日9時50分に「2000トン以内とせられ度」と沖縄までの燃料は片道分との電報が送られていたが、連合艦隊には報告せずに海上護衛総隊の燃料や徳山の帳簿外の燃料などを各所の同情もあり搔き集め、沖縄まで往復するに充分な燃料を搭載できたという。
そんな出撃準備に慌ただしい第二艦隊の大和に午後、水上偵察機が飛来した。それには鹿屋に出張していた草鹿連合艦隊参謀長と連合艦隊参謀三上作夫中佐が同乗していた。今回の作戦に反対する伊藤司令長官を説得するためだった。
草鹿参謀長の説得にも伊藤長官は納得はせず、その様子に三上参謀も、艦隊には上陸地点に乗り上げて陸兵になる事も考慮されていると口を挟むほどであったが、草鹿参謀の「一億総特攻の模範となるように立派に死んでもらいたい」の言葉に漸く伊藤長官は了承したが、艦隊の大半が中途で失われた時は作戦変更をしてもよいとの言質を取ったと言う。
この折に三上参謀は艦隊に随伴したいとかっての上司の第二艦隊参謀山本祐二大佐に懇願したが、連合艦隊の監視が無くとも立派にやるとすげなく断られたという。
艦隊の司令官、司令、艦長を集めての作戦打ち合わせの会議では、皆がこの作戦には不満で第17駆逐隊司令新谷喜一大佐は「艦隊は本土決戦時にこそ敵と刺し違えるべき」と、第21駆逐隊司令小滝久雄大佐は「連合艦隊最後の作戦なのになんで連合艦隊司令長官も参謀長もこの作戦の陣頭指揮をとらないのか」という内容を述べ、第二艦隊がこれまでに研究した意見も具申すべしとの意見も出たが、伊藤長官の「我々は死に場所を与えられたのだ」という言葉に議論は止んだという。
15時20分、第二艦隊は出撃した。
16時20分、豊後水道で対潜哨戒を行う第31戦隊の駆逐艦3隻は分派され、呉に引き返した。
豊後水道を通過した後、22時15分にはアメリカ潜水艦が平文で大和と名指しで無線を打っているのが傍受された。これは潜水艦ハックルブルクからのもので、艦隊は既に潜水艦スレッドフィンにも発見されていた。
7日の7時頃に第21駆逐隊旗艦朝霜が機関に不調をきたし艦隊より脱落した。不吉なアクシデントであったが、6時より第五航空艦隊が15機の零式艦上戦闘機を割いて、交代で10時まで艦隊直衛にあたってくれたのは僅かながらも艦隊には慰めであった。またこの中には伊藤長官の子息伊藤叡中尉(後に特攻で戦死)が搭乗していたという。
10時頃に第二艦隊は西に進路を変更した。これは接触してくるF6Fヘルキャットの偵察機や、新たに出現したマーチン飛行艇の目を欺き、佐世保に向かうかに見せる為の偽装航路であり、11時30分に艦隊は進路を目的の沖縄本島に向けたが、この行動は第二艦隊とアメリカ第五艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将には不運なものとなった。
スプルーアンス提督は元々砲術家であり、暗号解読や潜水艦からの報告により第二艦隊が出撃した事を知った彼は、これがこの戦争で最後の艦隊砲撃戦の機会として、第54任務部隊司令官モートン・デヨ少将の艦隊を第二艦隊迎撃に向ける事にしており、その為に戦艦6隻、巡洋艦7隻、駆逐艦21隻の艦隊が編成されていた。またスプルーアンス提督は伊藤長官がワシントンの日本大使館駐在武官だった折に家族ぐるみの付き合いをしており、これは伊藤長官に対する旧友としての餞のつもりだったのかも知れない。
だが、それは機動部隊である第58任務部隊の司令官マーク・ミッチャー中将には受け入れ難いものであり、以前の戦艦武蔵撃沈には潜水艦も関わっていたという説もあった事から、今度こそ航空攻撃のみで戦艦を沈める事を実証しようと意気込んでいた彼は7日には指揮下の機動部隊を西進させ、10時頃には280機、45分には106機の艦載機を発進させたうえで、スプルーアンスに事後承諾のような形で「貴官がやりますか? それとも小官がやりましょうか?」と選択を突き付けた。これに対してスプルーアンスはミッチャー提督が既に攻撃隊を発艦させている事、第二艦隊が佐世保に向かう進路を取っていた事から逃げ込まれると面倒な事になる事も考慮して「貴官がやれ」と艦載機による攻撃を承諾した。
12時32分頃、第二艦隊に第一波攻撃隊が襲来した。低く雲が立ち込め、それに視界を遮られ第二艦隊の対空には不利な天候と言えた。
この攻撃で大和は後部に爆弾2発、左舷前部に魚雷1本が命中し、後部艦橋、13号電探が破壊され電探室・主計課が壊滅し、後部副砲もやられ火災が発生し、最後まで鎮火できなかった。矢矧は爆弾1発が命中し、右舷機関部にも魚雷1本を被雷し航行不能となり、駆逐艦浜風は爆弾1発の命中で航行不能となったところを魚雷1本を被雷し真っ二つとなって轟沈した。
13時頃に第二波が来襲。30分には第三波も現れた。
これらにより大和は魚雷を左舷中央部に3本、中部に4本、後部に1本、右舷中央部に1本を被雷し、爆弾を艦中央部に3発受け、左舷への傾斜が止まらなくなり、総員退去の命が出た14時20分頃には艦腹を見せ横転しはじめ、23分には完全に転覆した。直後に火薬庫誘爆か機関部の水蒸気爆発が原因と思われる大爆発を起こして船体を三つに引き裂かれ、伊藤長官、有賀艦長等2700名以上の将兵と共に沈没した。
航行不能となっていた矢矧は更に魚雷を数本以上被雷、爆弾を10発以上受け14時5分頃に沈没。
第17駆逐隊旗艦である駆逐艦磯風は航行不能となった矢矧に接舷して第二水雷戦隊司令部を移乗させようとした折に至近弾で機関室に浸水を起こしてこれも航行不能となり、雪風に司令部と乗員を移乗させた後に雪風の砲撃により処分された。
駆逐艦霞は直撃弾と至近弾により缶室に浸水し、冬月に乗員を移乗させた後に冬月により雷撃処分された。
真っ先に機関不調で落伍した駆逐艦朝霜は10機の攻撃を受け爆弾3発の命中と至近弾を受け撃沈され、小滝司令と乗組員全員が艦と運命を共にした。
伊藤長官は大和沈没が免れない折に作戦中止を命じており、アメリカ艦載機の激しい銃撃を受けながらも1700名以上の生存者を救出した駆逐艦雪風、冬月、初霜は初霜に移乗した古村提督の指揮のもと撤退した。また艦橋前に爆弾1発が命中し、至近弾も受けた涼月は艦前部を大破して第一・第二砲塔、通信機能を喪失したが、単独で帰投した。
対してアメリカ軍の被害は13機と13名のパイロットの損失であった。
こうして最後の日本艦隊は壊滅し、4000名以上の戦死者を出して、陛下、そして大和をはじめとする軍艦建造にこれまで国防の為と多額の血税を払ってきた日本国民に対する日本帝国海軍の面子は保たれた。
ロシア
バルチック艦隊(日本海1905年)
司令長官:ジノヴィー・ロジェストウェンスキー中将
旗艦:クニャージ・スヴァロフ(ボロジノ級戦艦)
バルト海の艦隊を抽出して編成された為か日本ではバルチック艦隊の名称が有名であるが、正式には第二太平洋艦隊、第三太平洋艦隊である。
日露戦争の最中、旅順の第一太平洋艦隊の増援として1904年10月15日、戦艦7隻、巡洋艦8隻、駆逐艦9隻からなる第二太平洋艦隊はリバウ港を出撃した。
司令長官のロジェストウェンスキー提督はロシア海軍では珍しい貴族出身ではない平民の軍医の息子である提督で、癇癪持ちの粗暴な言動と厳格さで将兵からは煙たがれ、また敵も多かったが、それでもその人事はベストでは無いにせよ大艦隊を指揮してロシアから東洋まで率いて行く事が出来るのは彼しか居ないと認識されていたという。
ロシア艦隊では最新鋭の軍艦は旅順の第一太平洋艦隊か黒海艦隊に送られており、第二太平洋艦隊は最新鋭戦艦のボロディノ級戦艦4隻とペレスヴェート級戦艦1隻が含まれていたが、全体的にはなんとか遠洋航海に耐えられるものが抽出された旧式艦艇の寄せ集めであった。
また装備だけでなく人材も同じで水兵は未熟な者が多く、優秀な士官も多くは第一太平洋艦隊に配属され、ロジェストウェンスキー提督は司令部士官の人材不足を嘆いたという。
そんな艦隊の運命を予言したのか、戦艦アレクサンドル三世艦長ニコライ・ミハイロヴィチ・ブフヴォストフ大佐は10月9日のリバウ港での最後の送別会が終わった後の晩餐会で、目的地に着くまでに艦隊の半分は失われ、辿り着いたとしても日本艦隊に粉砕されるだろうが、如何に死すべきかは知っており、降伏だけはしないという内容をスピーチしたと言う。
艦隊は21日に北海のドッガーバンクを夜間航行中に英漁船団を日本海軍の水雷艇と誤認して攻撃し、一隻を撃沈し8名を死傷させ、自らも同士討ちを演じるという失態を犯し、賠償金などを英側にロシアは支払い一応解決はしたものの、艦隊は有能な参謀を事件説明のために本国に召還され、反露感情の増した英国の植民地寄港拒否、無煙石炭の販売制限、石炭の買占めなどの妨害を艦隊は以後受け続ける事となる。また同盟国である筈のドイツ・フランスも全体的には艦隊に冷淡であり、更に本国のフォローも充実したものとは言い難かった。
艦隊はスペイン沖でスエズ運河経由の副将格のドミトリー・フェルケルザム少将指揮する小規模な艦隊とアフリカ大陸を経由する本隊とに別れ、両隊は1905年1月8日にマダガスカル島のノシベにて合流した。
当初は酷寒の国であるロシアの憧れでもある常夏の地域の航海を艦隊の水兵達は楽しみにしていたが、暑さに慣れていない事や、航続距離の短さから寄港する港ごとに行われる石炭の艦への運搬作業に士気は低下し厭戦気分が漂っていた。
そしてノシベで本国よりなんら指示もないまま艦隊は待機の状態となり、あまつさえロジェストウェンスキー提督は石炭供給先のドイツのハンブルグ・アメリカン汽船会社が英国に無煙石炭の売買を禁止され、ロシアとの契約と違い品の落ちた石炭しか用意できない事から訴訟問題となった事での会社との交渉も委ねられる始末であった。
6日に艦隊は1日に旅順が降伏し第一太平洋艦隊が壊滅した事を知っており、既に当初の目的を失った以上は本国に帰港すべきで、そうでないなら旅順封鎖で疲弊した日本海軍がそれを癒す前に東洋でロシアに残された唯一の軍港であるウラジオストックに入港すべくすぐさま出港すべきであったが、ロシア本国の考えはすべて逆で、数さえ多ければ勝てるとばかりにリバウにあるロジェストウェンスキー提督が航海に耐えない等の理由で置いてきた旧式艦である戦艦1隻、巡洋艦1隻、海防戦艦3隻からなる第三太平洋艦隊を設立し、増援として2月16日にリバウを出港させるというものであった。それは艦隊の戦闘力を向上させるどころか低下させると提督を失望させるものであり、艦隊は増援合流を待つ為にも無為に二ヶ月余りもノシべに逗留する事となった。
3月16日にようやくノシベを出港した艦隊は4月26日にインドシナのヴァン・フォン湾に到着。5月9日にカムラン湾でニコライ・ネボガトフ少将の第三太平洋艦隊との合流に成功し、14日、ヴァン・フォン湾を出港し対馬海峡を目指した。ブフヴォストフ艦長などが予言したようにリバウ出撃前には此処までに半数以上の艦艇は脱落するのではないかと言われていたが、ロジェストウェンスキー提督は1隻も脱落艦を出すことなく長大な航海を成功させるという快挙を達成したのだった。
だが、そこまでだった。
長期航海で艦も乗組員も疲弊し、錬度も低い艦隊の前途には既に旅順封鎖での損傷などを回復し、万全の態勢と綿密な作戦を練って戦艦4隻、二等戦艦2隻、巡洋艦23隻、駆逐艦20隻、水雷艇31隻、海防艦1隻、砲艦4隻からなる日本艦隊が待ち構えていた。
5月27日の深夜に艦隊は仮装巡洋艦信濃丸に発見され、巡洋艦和泉も追跡に加わった。日本第三艦隊も姿を見せ、13時49分には南西を進む日本第一、第二艦隊は艦首方向に陣形変換などで混乱して四列となったロシア艦隊を発見した。
14時5分、彼我の距離8000mで日本艦隊は反航戦態勢から逐次回頭して同航戦に持ち込もうとした。この回頭中に日本艦隊はロシア艦隊の砲撃を加えられ旗艦の戦艦三笠をはじめ損傷する艦が出たが応戦しなかった。そして、そこまでがロシア艦隊が日本艦隊と互角に戦えた僅かな時だった。14時13分、回頭を終えた日本第一艦隊は距離6000mで満を持して砲撃を開始。
約束された屠殺が始まった。
砲撃はロジェストウェンスキー提督の旗艦であるスヴォロフ、既に病死していたフェルケルザム少将の旗艦であった戦艦オスラービアに集中して火災を生じさせ戦列より脱落させた。日本艦隊はその優秀な操艦でロシア艦隊の頭をほぼ海戦の間中抑え続け、砲戦が終わった19時20分頃にはオスラービア、戦艦アレクサンドル三世、戦艦ボロジノが撃沈されていた。
夜間には駆逐艦・水雷艇の魚雷攻撃が加えられ、スヴァロフをはじめ戦艦ナヴァリンが被雷し撃沈され、損傷を受けた戦艦シソイ・ヴェリキー、巡洋艦アドミラル・ナヒーモフ、ウラジミール・モノマフは自沈を遂げた。
28日、負傷してスヴォロフから駆逐艦ブイヌイに移乗したロジェストウェンスキー提督より艦隊の指揮を委譲されたネボガトフ提督はなんとか戦艦2隻、海防戦艦3隻の残存艦隊を率いてウラジオストックに向かうも日本主力艦隊に包囲され降伏した。
四部五裂状態となった艦隊の残りの艦艇はばらばらになりながら中立国に逃げ込むかウラジオストックを目指したが、日本艦隊の追撃は厳しく、昏睡状態となっていたロジェストウェンスキー提督をブイヌイから更に移乗させていた駆逐艦ベドウィは降伏し、撃沈されるか自沈を遂げたものも多く、ウラジオストックに入港したのは巡洋艦1隻と駆逐艦2隻、中立国に逃げ込んだのは巡洋艦3隻と駆逐艦1隻のみであった。
対して日本海軍は三笠をはじめ損傷艦は出したものの失ったのは水雷艇3隻のみであり、航海中から敗北を予言し、その旨を家族への手紙に認めていたロジェストウェンスキー提督でもこれほどのものとは予想だにしていなかったであろう無残な敗北であった。(日本海海戦)
捕虜となったロジェストウェンスキー提督は佐世保の海軍病院に収容され、日本の連合艦隊司令長官東郷平八郎から礼を尽くした見舞いを受け、「私が敗れた相手が閣下であったことが最大の慰めです」と述べた。
戦争が終わり帰国後、世論で批判された事もあり、ロジェストウェンスキーはネボガトフ提督や幕僚達と共に1906年に本国で、艦艇を降伏させ日本に引き渡した罪状で軍法会議にかけられたが、その裁判で彼は負傷で意識朦朧としていたとして無罪とされようとしているところを「この裁判は間違っている。責任は全て私にあり、裁判は私とネボガトフだけを裁けば良い」と発言するなど、あくまでベドウィで幕僚は自分の命令で降伏したとし、自らの意志で艦隊を降伏させたとするネボガトフの罪状もひいては自分の責任であると主張したと言う。
裁判はネボガトフと第二太平洋艦隊参謀長クラピエ・ド・コローニュ大佐は死刑(後に減刑)になったが、ロジェストウェンスキーは無罪となり軍を退役し、三年後に日本海海戦での傷が元で病死した。
イギリス
Z部隊(マレー沖1941年)
司令長官:トーマス・フィリップス大将
旗艦:プリンス・オブ・ウェールズ(キング・ジョージV世級戦艦)
1941年12月2日、英米と日本の関係がきな臭くなってきた国際情勢の中、シンガポールに戦艦1隻、巡洋戦艦レパルス、駆逐艦4隻からなる艦隊が入港した。極東の英艦隊としては初めての戦艦、それも最新鋭戦艦であるプリンス・オブ・ウェールズが含まれている事にシンガポールの英国民は心強く感じた事であろう。
この艦隊は英首相ウィンストン・チャーチルの肝煎りで編成された日本に対する抑止力艦隊であり、軍令部は最新鋭のキング・ジョージⅴ世級3隻をノルウェーの独戦艦ティルピッツに対抗する為に残したい一存でネルソン級戦艦、R級戦艦、巡洋戦艦レナウンからなる戦艦7隻を中核とした艦隊の派遣を望んでいたが、チャーチルは最小の兵力で最大の効果を上げれるとし、最新鋭戦艦1隻が居なくなってもそのお陰で16インチ砲のネルソン級もティルピッツへの抑えとして残す事が出来るとした。
だが彼の認識は甘く(抑止力の宣伝効果さえあれば良いとばかりに、当初は就役したばかりの戦艦デューク・オブ・ヨークを航海中に訓練は出来るとして送り込もうとしていた)、艦隊の根拠地であるシンガポールに日本軍が侵攻する事も、その兵力の強大さも想定していないか過小評価していた。また彼は高速戦艦2隻は日本のシーレーンを脅かす存在と同時に日本海軍が金剛級の高速戦艦でこちらのシーレーンを破壊しようとする場合にも対応できる事で抑止力となると考え、日本艦隊のドクトリンがシーレーン防衛よりは艦隊決戦であるとは考えていなかった。
他にバミューダー島の空母インドミダブルが艦隊に合流する予定であったが11月3日に座礁して修理にアメリカに送られ、それが完了の後にシンガポールに向かったが間に合う事は出来なかった。
しかし宣伝効果はどうあれ英極東艦隊の兵力不足は明らかであり、司令長官のフィリップス提督は、R級戦艦4隻と修理中の戦艦ウォースパイトを復帰次第、艦隊に廻してもらえるように軍令部に頼み、4日に飛行機でフィリピンのマニラに向けて発ち、米東アジア艦隊司令長官トーマス・ハート大将と会談してアメリカ駆逐艦4隻をシンガポールで配下に置けるようにした。これは日本軍が英国だけを攻撃しても米艦隊を攻撃したと既成事実を作る為のものであった。
6日に日本軍輸送船団が英偵察機に南下しているのを発見された。しかしフィリプス提督はマニラにあり、急遽シンガポールに戻る事となったが、その為に艦隊を出撃させる事は出来なかった。
7日、フィリップス提督はシンガポールに帰還。またオーストラリアに向かっていたレパルスと駆逐艦2隻もシンガポールに引き返してきた。しかし天候が悪化し、日本軍輸送船団を偵察機は断片的な情報しか送れず、偵察機の1機は宣戦布告前にもかかわらず秘匿のために日本軍に撃墜されていた。
8日、真珠湾攻撃よりも二時間前にコタバルに日本軍が奇襲上陸し橋頭保を確保した。また夜のうちにシンガポールへの空襲も敢行され、被害は軽微なものの、シンガポールの英国市民に不安を生じさせると共に、軍令部から出されていた艦隊のすみやかなるシンガポール出港命令のある面での正しさを実証していた。
17時10分頃にZ部隊というコードネームをつけられたウェールズ、レパルス、駆逐艦4隻からなる艦隊は日本軍船団撃滅の為に出撃した。他の艦艇は旧式過ぎるか、修理中のために艦隊に追随出来きず、追随できた軽巡洋艦ダーバンは予備として残された。
フィリップス提督は英空軍に索敵と艦隊護衛を依頼していたが、シンガポールの各司令部との連絡役として残された参謀長パリサー少将からは優勢な日本軍機との戦闘で手一杯の空軍にその余裕は無く、戦闘機の上空直衛は出来ないと伝えられた。正直なところ、空軍は海軍が日本軍機の行動範囲の危険海域に自ら乗り込む事に賛同しかねており、それはZ部隊の駆逐艦艦長にもあったという。だが、ある士官はあの時にZ部隊が出撃しなければ、シンガポールの英国民の海軍への信頼は失墜していただろうと述べている。
9日、日本軍の機雷原を避ける為にアナバン群島の東を迂回してシンゴラにあるという日本軍船団を目指して北に進む艦隊にとって好都合の悪天候の中、Z部隊は東京時間の15時15分頃に潜水艦伊号第六十五潜水艦という思わぬ伏兵に発見されていた。二時間遅れて伝えられたこの報告は日本軍にとって青天の霹靂であった。航空機偵察の報告で英東洋艦隊主力は未だに港内にあるとされ、南遣艦隊司令長官小沢治三郎中将は、指揮下の艦艇の上陸完了した輸送船団の護衛任務を解いてカムラン湾に帰投させていたからである。結局、航空偵察は浮きドックを戦艦と見誤った誤報と判明し、小澤提督は輸送船団にはシャム湾への退避を、指揮下で可能な艦艇には夜を徹しての英艦隊索敵を命じた。17時45分頃以降、回復した天候の下、Z部隊は軽巡洋艦鬼怒、重巡洋艦鈴谷、熊野の水上機に発見されたが、依然としてフィリップス提督は艦隊を進めた。
18時39分、燃料が欠乏した駆逐艦テネドスはシンガポールに帰港する事を命じられ艦隊から分離された。この折に朝にZ部隊がシンガポールに帰投時の敵潜水艦対策の為にアナバン島方面に極東艦隊の可能な限りの兵力を展開させるように無線する事も彼女は命じられていた。
51分、艦隊は前方5マイルに照明弾が輝くのを発見し距離をとる為に回頭。また直後のパリサー参謀長からのコタバルに日本軍上陸中の報告もその回頭を肯定するものであった。照明弾は夜間索敵を実行していた海軍第二十二航空隊が小沢提督の艦隊を敵艦隊と誤認して落としたものであった。
20時55分、現在の状況を熟慮したのかフィリップス提督は作戦中止を決断し艦隊はシンガポールへの帰路についた。23時52分には伊号第五十八潜水艦が艦隊を発見攻撃したが損害を与える事も気づかれる事も無く、その報告もまた日本側に届いたのは遅くなってのことであった。
しかし正午前に日本軍機の活動圏外と思われたクアンタンに日本軍が上陸中の報がもたらされ、フィリップス提督はこれを撃滅すべく艦隊の針路を変更した。
10日の7時18分、ウェールズから水上機が射出され、クアンタンを偵察したが、これは日本軍が偽装上陸工作をした可能性もあるが誤報である事が判明した。更に三時間前に発見したが見逃していた小船4隻を臨検しようとして時間を潰し、10時5分に艦隊よりも南に居るはずのテネドスが日本軍機の空襲を受けた事を知り、慌てて帰投コースを取るも15分に帆足正音予備少尉の九六式陸上攻撃機に発見される事と為った。
11時、まず美幌航空隊の九六式陸攻8機が来襲。これに対してフィリップス提督は全艦一斉に右舷に30度の回頭を次に左舷に一斉に50度の回頭を命じて対空射撃を混乱させた。日本側の投弾は正確で水平爆撃にもかかわらずレパルスの右舷飛行機格納庫最上甲板に爆弾一発を命中させたが損害は軽微であった。
次に33分に元山航空隊の九六式陸攻二隊16機が現れた。前回の失敗からフィリップス提督は回避行動は各艦に委ねていた。レパルスを攻撃した7機は二隊に分かれて挟撃を図ったが、一隊がレパルスを金剛と誤認して躊躇した為に成功せず、レパルスは魚雷を全て回避し、更に爆撃を加えてきた一波の美幌航空隊の投弾も、新たな美幌航空隊の九六式陸攻8機の雷撃もかわしていた。
対してウェールズを狙った9機は1機を失ったものの左舷後部に魚雷1本を命中させていた。
その一本で勝敗は決まった。その爆発は左舷中央に命中しようとしていた魚雷を衝撃で自爆させると共に左舷外推進軸を湾曲させ、それはそのまま止められるまで艦底を打ち続け水防隔壁扉を開放し、爆発で生じた破孔からの浸水を更に増大させ、機関室、発電室の多くを使用不能とし、電源供給を絶たれた排水ポンプ、舵、通風装置、高角砲が動きを止め、左舷に10度傾斜し速力も20ノットに低下した。
レパルスの艦長ウィリアム・テナント大佐は旗艦に異常が発生した事を察し、また旗艦が未だ何も無線を発していない事を知り、独断で無線封止を解いて空襲を受けている事と位置を伝えた。これを受けてフィリップス提督は知らなかったが、空軍が海軍援護の為に待機させていたブリュースター・バッファロー戦闘機一個中隊が飛び立つ事となった。
やがて旗艦に「我、航行の自由を失う」との信号旗がようやく掲げられた。
次に12時17分に飛来したのは鹿屋航空隊の三隊、計26機による新鋭一式陸上攻撃機の攻撃であった。
二隊はウェールズを狙うが、もはやほぼ為す術も無い彼女の様子に攻撃を控えた機体も多く、投下した魚雷は6本で、そのうち4本の魚雷を命中させた。皮肉にもこの浸水で左舷に傾斜していたウェールズはほぼ水平の状態に復旧したという。しかし速力は8ノットとなり、浸水も広がっていった。
これに対して未だにほぼ無傷の状態のレパルスに対する8機の雷撃は全て外れたが、その回避の為に右舷に回頭した彼女にウェールズを攻撃すると見えた3機が急に針路を変えて横腹を晒したレパルスに襲い掛かり、遂に彼女は左舷に魚雷1本を喰らう事となった。
次の9機は6機は散開して右舷の様々な方角から襲い掛かり、左舷からは3機が編隊を組んで襲い掛かった。右舷の雷撃をかわし、左舷から攻撃した敵機2機を撃墜したレパルスだったが左舷の攻撃は3機が3機共魚雷を命中させるものとなり、更に比較的遠距離から放たれていた右舷からの魚雷も1本命中した老朽艦にはこの打撃は耐え切れず12時33分に転覆して海に没した。
12時41分には美幌航空隊の二隊、計17機の九六式陸攻が水平爆撃を行い、1発の命中弾が左舷射出機を貫通して最後に残っていた動力源であるX罐室を破壊し、ウェールズの命運は尽き、13時23分に完全に沈没した。
戦闘中は激しく機銃掃射を浴びせた日本軍は海上を漂う生存者に対して攻撃を加える事はなかった。「射撃を中止し、救助活動に専念せよ」と信号を送ってきた日本機があったという生存者もいるが、その事実は無い様である。
ようやく飛来したバッファローの部隊が見たのは英戦艦の最後だけであった。この折に海面を漂う生存者が拳を振り上げている様子に戦闘機の方は敵に銃撃される危険にあるのに未だ乗組員の意気盛んと感動したが、実際は「今頃来やがって」という戦闘機に対するブーイングだったという。
この戦闘で退艦を拒否したと伝えられるフィリップス提督とウェールズ艦長ジョン・リーチ大佐をはじめ840名余りが戦死を遂げ、この方面に於ける日本軍への最大の脅威は消滅した。(マレー沖海戦)
そればかりか停泊中のものだけでなく、戦闘航海中の戦艦ですら航空機の前には無力である事が世界で初めて証明されたのだった。
そしてこの悲劇に一役買ったチャーチルは、アジアでの英国の権威が失墜する事を踏まえて、政治的な意味合いの強かったウェールズの沈没に衝撃を受けている。
ドイツ
ドイツ東洋艦隊(フォークランド沖1914年)
司令長官:マクシミリアン・フォン・シュペー中将
正式な名称は東アジア巡洋艦戦隊。
1914年に第一次世界大戦勃発し、8月3日の時点では艦隊の主力艦は根拠地の青島から離れ、旗艦シャルンホルストと姉妹艦のグナイゼナウがポナペ島、軽巡洋艦ニュールンベルク、ライプチヒがメキシコ方面、軽巡洋艦エムデンが東シナ海と分散していた。
6日にニュールンベルクがボナペに到着。その日のうちに艦隊の3隻はボナペを発ち、11日にパガン島に到着し、これに12日にエムデンが加わった。
シュペー提督は艦隊を組んで南アメリカ大陸経由でドイツに帰国する事を考えておりエムデンにもそれを望んだが、エムデン艦長のカール・フォン・ミュラー中佐は軽巡洋艦でのインド洋方面での通商破壊を進言し、それは受け入れられ13日のバガン出港の折にエムデンは分派された。
その後はエニウェトク環礁、クリスマス島、ヌクハビ島などで燃料補給を行い、その間にも9月7日にニュールンベルクでファニング島の英無線基地を破壊したり、22日にはシャルンホルスト、グナイゼナウで仏領タヒチ島パペーテを襲撃し仏砲艦ディーレを撃沈しその存在を誇示した。
10月12日にイースター島に入港し、カリブ海より馳せ参じた軽巡洋艦ドレスデンと合流。14日にはライプチヒも合流し、エムデンを除く主力艦を集結させた艦隊は18日にイースターを発ちドイツを目指した。
11月1日、艦隊は英第四戦隊司令官クリストファー・クラドック少将率いる装甲巡洋艦2隻、軽巡洋艦1隻、仮装巡洋艦1隻からなる艦隊とチリのコロネル沖で遭遇し、日没前の陽光にシルエットを浮き上がらせた英艦隊に対して、もう日の沈んだ陸地側を背後にしてシルエットを陸地に被らせて相手の射撃を困難にさせる地の利を得た布陣で味方の損失艦無しにクラドック提督の旗艦装甲巡洋艦グッド・ホープ、モンマスを撃沈しクラドック提督を戦死させるという完璧勝利を得た。(一説にはクラドック提督はあくまで付かず離れずの位置で増援を待って独艦隊と交戦するつもりだったが、緒戦の不運な命中弾で指揮困難な負傷をし、交戦状態に突入してしまったというものもあり)(コロネル沖海戦)
イギリスには屈辱的な敗北であったが、海軍大臣のウィンストン・チャーチルの「シュペーは花瓶に飾った花のようなもので、見かけは綺麗だが必ず枯れるだろう」という発言は、弾薬・石炭の補給や艦隊の整備困難で孤立無援のドイツ東洋艦隊の状況を的確に示しているものであった。
12月8日、ホーン岬を経由して大西洋に進出した艦隊はフォークランド諸島の沖合いにあった。シュペー提督はフォークランド襲撃を意図しており、艦長達の多くが持ち込めるだけの石炭を各艦が搭載している現状では襲撃は不要と反対したにもかかわらず、早朝に襲撃の偵察の為にグナイゼナウとニュールンベルクを派遣していた。
だが演習のようなものだと楽観視していたシュペー提督の考えと違い、2隻がフォークランドのポート・スタンレーで見たのはダブトン・スターディー中将率いる巡洋戦艦2隻、前弩級戦艦1隻、装甲巡洋艦3隻、軽巡洋艦2隻、仮装巡洋艦1隻からなる南大西洋・太平洋方面艦隊という予想だにしない強力な艦隊であった。
この時、英艦隊の大部分は燃料補給中であり、此処を攻撃していれば海戦の結果は様変わりしたという後世の意見もあるが、グナイゼナウとニュールンベルクは戦艦キャノパスの砲撃を受けながらも、本隊との合流を選び反転した。
状況を知ったシュペー提督は直ちに逃走を図った。だが、10時頃にはキャノパスと軽巡洋艦ブリストルを仮装巡洋艦マセドニア以外の全艦を出撃させた英艦隊は東洋艦隊に追いつき、13時頃には英旗艦巡洋戦艦インビンシブル、インフレキシブルが射撃を開始していた。
シャルンホルストのシュペー提督は軽巡洋艦だけでも逃す為に彼女達に分離を命じ、自らはグナイゼナウと共に殿として敵の追撃を阻もうとした。
これに対してスターディー提督は装甲巡洋艦2隻と軽巡洋艦1隻に独軽巡洋艦の追撃を命じ、自らは巡洋戦艦で殿となる独装甲巡洋艦に対した。独装甲巡洋艦の射程内に巡洋戦艦を進入させたものの彼の指揮ぶりは慎重で、独艦隊と付かず離れずの砲戦を続け、シュペー提督の努力にもかかわらずその態勢は保持され、16時17分にシャルンホルストが、17時40分にはグナイゼナウが失われ、シュペー提督は息子二人と共に戦死を遂げた。
対して英側も致命的ではないものの両巡洋戦艦で総計30発余りの砲弾を被弾しており、また消極的な戦い方から砲弾の殆どを消費していた。
一方、逃走した軽巡洋艦勢では、ニュールンベルクは英装甲巡洋艦ケントに、ライプチヒは装甲巡洋艦コーンウォール、軽巡洋艦グラスゴーによって止めを刺され、ドレスデン唯1隻が逃れる事が出来た。(フォークランド沖海戦)
しかし、その彼女も1915年3月14日にチリのマス・ア・ティエラ島沖にてケント、グラスゴーにつかまり、15日に島のカンバーランド湾で自沈して果てた。
こうしてイギリスはコロネルの雪辱を果たし、ドイツはイギリスに対する牽制となっていた外洋での最大規模の艦隊を喪う事となった。
高海艦隊(スカパ・フロー1919年)
司令長官:ルードヴィッヒ・フォン・ロイター少将
1918年11月11日の第一次世界大戦終結後、イギリス本国艦隊司令長官デヴィット・ビーティー大将に降伏したドイツ高海艦隊は25日から1919年1月9日までにスカパ・フローに入港しパリ講和会議で決定する処分を待つ事となった。
高海艦隊司令長官フランツ・フォン・ヒッパー大将の決死的艦隊出撃命令を拒否し、それがキールでの水兵反乱、ドイツ革命へと繋がった艦隊の水兵達の反抗的な態度に表れた士気喪失状態は更に悪化しており、艦は汚れ、兵の規律は乱れ、士官は階級章を剥ぎ取っている状態にイギリス海軍士官は驚いたという。それでも英国市民が物見遊山の観光客のようにボートに乗って自分達の乗る艦をまるで見世物のように見物する姿などに次第に乗組員達は屈辱と感じる不満を持ち始めていたという。
一方、講和会議で高海艦隊は戦勝国に賠償として譲渡される事を知った艦隊の責任者であるロイター少将は艦隊を自沈させる事を決意。準備を密かに始め、6月20日夜に監視役ともいうべきイギリス第一戦艦戦隊が演習の為に出港した隙を衝き、ヴェルサイユ条約が調印される21日の10時頃に旗艦である戦艦フリードリッヒ・デア・グロッセから自沈に備えるように命令し、11時頃に実行を命令した。
こうして戦艦11隻、巡洋戦艦5隻、巡洋艦5隻、駆逐艦32隻という大艦隊は自沈を遂げた。休戦協定を破ってのこの行為は過酷な代償としてドイツ海軍に圧し掛かる事となったが、この報を聞いたジュトランド沖海戦時の高海艦隊司令長官であるラインハルト・シェーア提督は、降伏と言う不名誉な汚点をドイツ海軍に残さなかった事を嬉しく思うとし、「ドイツ海軍艦艇の自沈は艦隊の士気が廃れてはいない事を証明した。この最期の行為は明らかにドイツ海軍最良の伝統を示している」とこの行為に賛辞を送ったといわれる。
第一戦闘グループ(ナルビク1940年)
司令:フリードリッヒ・ボンテ代将
旗艦:ヴィルヘルム・ハイドカンプ(Z17型駆逐艦)
旗艦:ヴォルフガング・ツェンカー(Z5型駆逐艦)
1940年4月7日よりドイツ海軍の総力を結集して開始されたノルウェーへの奇襲侵攻作戦「ヴェーぜル演習」の為に第一、第三、第四駆逐隊などの計10隻の駆逐艦で編成され、総指揮は駆逐艦部隊司令官であるボンテ代将が執り、任務はナルビク攻略の為に第三山岳歩兵師団を輸送する事であった。
9日早くに艦隊は吹雪舞う悪天候のなかナルビクに侵攻し、ノルウェー海防戦艦2隻を撃沈し、山岳師団を上陸させ目的を達した。
海軍総司令官エーリヒ・レーダー元帥は英艦隊の反撃を考慮して侵攻艦隊を撤退させた。ヒトラー総統は当初は艦隊が居なくなれば取り残されたと認識するであろう陸軍の士気低下を考慮して渋ったが、レーダー提督の説得に折れて艦隊の撤退を認めていた。
しかし、燃料が欠乏していた第一戦闘グループには来る筈のタンカーは2隻のうち1隻しか到着していなかった。この為に一度に2隻しか給油できず、時間だけが経過していった。
10日早朝に艦隊はバーナード・ウォーバートン=リー大佐率いる英第二駆逐隊5隻の奇襲を受けた。ナルビクの入り口であるヴェストフィヨルドには4隻のUボートが配置されていたが吹雪の為に発見できず通過を許していた。また手違いからか、本来いるべきはずの位置に哨戒する駆逐艦はいなかった。
この奇襲は駆逐艦ホスタイル、ホットスパーをナルヴィク北岸にあると思われた陸上砲台からの援護に残し、残り3隻を率いるリー大佐の旗艦である駆逐艦ハーディーがまず単艦で商船の間を縫って侵入しての4時30分からの雷撃に始まり、発射された7本の魚雷のうち独旗艦である駆逐艦ハイドカンプに1本、駆逐艦アントン・シュミットに2本が命中し、後部火薬が爆発したハイドカンプは大破してボンテ代将は戦死し、シュミットは轟沈した。次いで残りの英駆逐艦ハンター、ハヴォックの砲撃によりタンカーのヤン・ヴェレンから給油中の駆逐艦ハンス・リューデマン、ヘルマン・キュンネはタンカーからワイヤーを外すも前者は砲撃で火災が生じ後部弾薬庫注水、後者はシュミット轟沈の衝撃で機器が一時使用不能となり、駆逐艦ディーター・フォン・レーダーは揚錨機に命中弾を受け、錨を引きずりながら桟橋へ後退するも砲撃で炎上するなどハイドカンプと第三駆逐隊は碌な抵抗も出来ないまま壊滅状態となり、また停泊していた独商船にも損害が生じていた。
遅まきながら襲撃に気づいたベイ大佐の第四駆逐隊の3隻が駆けつけたために、攻撃の総仕上げとして各艦の残存魚雷を全て港湾の敵に放っていたリー大佐は艦隊を撤退させたが、その前途をバラゲンフィヨルドに居た独駆逐艦ゲオルク・ティーレ、ベルント・フォン・アルニムが阻み、英艦隊はやがて挟撃される事となった。
だが、当初はリー大佐はティーレとアルニムを味方の増援と勘違いして信号を送るも、攻撃を受けて艦首砲は破壊されるに及び、「敵と交戦を継続せよ」の信号旗をあげるが、艦橋に命中弾を受け大佐は重傷を負い、罐室にも命中弾を受け航行不能となったハーディーは脱落し座礁。次に先頭艦となったハンターにも砲火が集中し、炎上して戦闘力を喪失して速度も低下したハンターは、被弾で艦橋からの操舵不能となった後続のホットスパーと衝突。ハンターから艦を離したホットスパーはハヴォックの援護を受けて脱出する事が出来たが、衝突で船体を裂かれていたハンターは沈没した。
この戦闘で独側は駆逐艦2隻を撃沈し、敵司令官リー大佐を戦死させ(上陸後に死亡)たが、燃料欠乏の為に追撃が徹底せず、ホットスパーを逃す事となった。またUボートも撤退する英駆逐艦を攻撃したが早期爆発という磁気魚雷の欠陥により無効に終わった。
これに対して独側は駆逐艦2隻を沈され駆逐艦部隊司令官を失い、リューデマン、レーダーの他にもティーレが主砲2門が使用不能で火災で弾薬庫に注水、アルニムは罐室が被弾で使用不能となる損害を受け、更に泣きっ面に蜂とばかりに撤退中のハヴォックにフィヨルドに入ろうとしていた補給船ラウェンフェルスも撃沈され、他の商船にも犠牲を出していた事から、艦隊は弾薬・燃料共に不足し風前の灯となっていた。(第一次ナルビク海戦)
これに対してUボート4隻が増強されたが、変わらぬ魚雷の欠陥の為に効果は無かった。
13日、英巡洋戦艦戦隊司令官ウィリアム・ホイットワース中将率いる旗艦戦艦ウォースパイト、駆逐艦9隻からなる英艦隊が再度ナルビクに侵入し、艦隊の運命は決まった。
事前にその情報を知らされていた独側の司令官代理となった第四駆逐隊司令バイ大佐は戦闘可能な4隻を側方フィヨルドに分散させイギリス側を包囲する計画を立てていた。だが、艦隊の士気は低下していたのか、13時頃にトーシュタットに向かう途中の駆逐艦エーリヒ・ケルナー、キュンネが英艦隊を発見して警報を送った折にナルヴィク港内の駆逐艦6隻は蒸気もあげていない状態であった。
英艦隊との交戦でキュンネは後退し、ケルナーはフィヨルドの南側のデューブヴィーク湾に向かい待ち伏せるも、ウォースパイトより発し、既に停泊中の潜水艦U-64を撃沈していた水上機型ソードフィッシュの警報によりケルナーの位置は英側に把握されており、駆逐艦ベドウィン、エスキモーの砲雷撃、更にウォースパイトの砲撃を受けケルナーは撃沈された。
後退したキュンネは漸く出撃してきた駆逐艦ヴォルフガング・ツェンカー、リューデマン、アルニムと合流し、進入してきた英艦隊と交戦。途中、ソードフィッシュ10機の攻撃も受けるも2機を撃墜して損害は無く、英駆逐艦ハンジャビに命中弾を与え、艦首に破孔を開けて15ノットに低下させた他に機関室への命中で一時航行不能とさせたが、独側も損傷を受けた上に弾薬を使い果たし、ベイ大佐はナルビクの東の狭い入り江であるロムバークスフィヨルへの撤退を命じた。その折に駆逐艦エスキモーに追跡されたキュンネはヘリヤンスクフィヨルに座礁し、乗組員が脱出したキュンネをエスキモーの魚雷が粉砕した。
その頃、他の独駆逐艦もフィヨルドに出てきたが、単独だったギーゼは英駆逐艦6隻の砲火で戦闘能力を喪失して放棄された。
レーダーは損傷により航行不能状態でフィヨルド港内桟橋に横付けされたままであったが、侵入してきた英駆逐艦コサックに烈しい砲撃を浴びせ、これを一時的に制御不能とさせてフィヨルド南側に応急修理を行う為に座礁させたが、自らも英艦隊の攻撃で炎上し、捕獲する為に接近してきた駆逐艦フォックスハウンドの前で放棄され自爆した。
一方、キュンネを撃沈したエスキモーはフォレスター、ヒーロー、ベドウィン、イカラスを後続として猶も逃げる敵を追跡し、僚艦との共同でティーレ、アルニムと交戦して2隻の砲火を沈黙させた。戦闘不能となったティーレは陸に乗り上げ、捕獲されて沈んだが、その前に発射した魚雷は一本がエスキモーに命中し、艦橋より前を削り取っていた。しかし独側の抵抗はここまでで、こうして8隻の独駆逐艦は撃沈されるか、海岸に乗り上げ自沈を遂げて艦隊は全滅した。(第二次ナルビク海戦)
ドイツ海軍は保有する駆逐艦の実に半数を失った。だが英海軍のこの勝利は連合軍に生かされる事はなく、5月28日にナルビクを連合軍は占領するも、6月7日、8日に撤退する事となる。
フランス
エジプト遠征艦隊(アブキール湾1798年)
司令長官:フランソワ=ポール・ブリュイ中将
旗艦:ロリアン(オセアン級118門戦列艦)
1798年5月19日、ツーロンよりブリュイ提督率いる戦列艦13隻、フリゲート艦6隻、コルベット艦等11隻、凡そ200隻の輸送船からなる大艦隊が出撃した。
イギリスとその植民地であるインドを分断し、更にゆくゆくはインド占領の前進基地とする為のエジプト遠征部隊であり、ナポレオン・ボナパルトを総司令官とし3万1300名の軍隊と学者などの1000名からなる大部隊であった。
イギリス海軍もこの動きには警戒していたが、ツーロンを監視中であった戦列艦ヴァンガードを旗艦とするホレーショ・ネルソン少将の6隻からなる艦隊は嵐に遭遇しサン・プエトロ島沖で補修中であった為に出し抜かれた形となった。
6月9日、艦隊はマルタ島沖でチヴィタヴェッキアからの船団32隻と合流。交渉決裂したマルタ島に10日に上陸し12日に聖ヨハネ騎士団を降伏させ、19日にマルタを発った。フランス艦隊を探す13隻に増強されたネルソン艦隊がマルタに着いたのは20日の事だった。
艦隊はアレクサンドリアには直行せず、追い越したネルソンは28日にアレクサンドリアに到着したもののフランス艦隊が居ない為に北西に向かったが、彼を手玉に取るように7月1日に到着した艦隊はマルブー岬に遠征部隊を上陸させ、次の日には彼らはアレクサンドリアを占拠した。この折、上陸するナポレオンを眺めブリュイ提督はこれまでの幸運に思いを馳せたのか「私は運命に見放される」と発言したと言われる。
ブリュイ提督はナポレオンより遠征部隊上陸後はツーロンかギリシャのコルフへの退避、もしくはアレクサンドリアに入港するように指示されたが、ツーロン・コルフは英艦隊と遭遇する可能性があり、アレクサンドリアは水深が浅いと不安を示し、停泊しているアブキール湾で北に艦首を向けた単縦陣で左舷に見える湾岸沿いに停泊し、北は野砲を配置したエル=ベキエ島、南は北西からの風で守られるものとした。また広がる浅瀬も防御に向いているものと思われた。
その後、アレクサンドリアに退避する事をブリュイは決めたが、ネルソンがそれを待つ事は無かった。
8月1日14時30分、戦列艦13隻、フリゲート艦4隻からなるブリュイ艦隊の前に戦列艦13隻からなるネルソン艦隊が姿を見せた。
フランス側は艦隊の乗組員のかなりが上陸しており、また敵が劣勢で攻撃を仕掛けてこないのではないかという判断もあってか停泊したままで迎え撃つ事となった。
だが、期待に反してネルソンは大胆にも浅瀬で座礁する危険を顧みずに艦隊の一隊をエル=ベキエ島と最北艦ゲリエとの間を通過させフランス艦隊の右舷に展開する本隊と共に敵を挟撃しようとした。その試みは先頭艦である戦列艦カローデンの座礁で挫けたかと思えたが続く戦列艦ゴライアスを先頭とする5隻はフランス艦隊と湾の間に潜り込む事に成功し、18時30分、ゴライアスの発砲をもって戦闘が開始された。フランス側は湾側である左舷の砲で戦う事を想定しておらず余計な荷物類を置いていた為に砲撃は著しく阻害されていた。
日が落ちても砲火と炎上する艦でアブキール湾はまるで真昼のようであったという。
挟撃を受けた北側のフランス艦隊では「指揮官は命令を下しながら死ぬべきである」と負傷しながらも医務室に行かず、最期は体が被弾で真っ二つになったとも言われるブリュイ提督、両足を失いながらも樽に入って出血死するまで指揮を続けた戦列艦トナンのアリスティード・デュプティ=トゥアール艦長などが奮戦したが、劣勢を変える事は出来なかった。その一方で南側のピエール・ヴィルヌーブ少将の戦列艦5隻とフリゲート2隻はブリュイ提督の指示を待つばかりで何も行動を起そうとしなかった。
21時過ぎに旗艦ロリアンは火薬庫誘爆で火柱を上げ、22時頃に大爆発を起して海に没した。
その光景に両軍の将兵とも気圧されたのか、一時間余り自然発生的な形で休戦状態が起こったという。
再開された海戦は2日の正午には終了し、英側ではトナンとの砲撃戦で戦列艦マジェスティックのジョージ・ウェスコット艦長が戦死し、ネルソンも負傷したが1隻も失わず、対して仏側はブリュイ提督をはじめ多数の将官を失ったばかりか、湾を脱出したヴィルヌーブ提督の戦列艦2隻とフリゲート2隻以外の艦は炎上して失われるか、捕獲されるか、座礁して艦隊は壊滅し、エジプト遠征部隊は孤立する事となる。
フランス艦隊(ツーロン1942年)
外洋艦隊司令長官:ジャン・ド・ラボルド大将
第三地区海軍方面部隊司令長官:アンドレ・マルキ大将
1942年11月、ヴィシー政権であるフランス陸海空軍総司令官であり海軍大臣でもあるフランソワ・ダルラン元帥はアルジェにあった。
8日、彼は北アフリカに上陸したアメリカ軍と停戦協定を結び、ヴィシー政権国家元首・首相フィリップ・ぺダンの了承のもと10日には北アフリカのヴィシー政府軍に休戦を命じた。
またフランスの艦隊には脱出して連合軍に降伏するように命じたがツーロンのフランス艦隊の外洋艦隊司令長官ラボルド提督は元々反英主義者であり、ヴィシー政権からの裏付けが無いとして拒否。これが悲劇の始まりとなった。
ドイツはダルラン提督の裏切り行為に激怒し、ヴィシーフランスのフランス全土を制圧するアントン作戦を、27日にはツーロンのフランス艦隊接収を目的としたリラ作戦を始め第2SS装甲師団ダス・ライヒの部隊を含むドイツ軍は侵入を開始した。
脱出の機会を失っていたフランス艦隊はドイツに接収される事を防ぐ為に自沈を遂げていった。
戦艦3隻、巡洋艦7隻、駆逐艦17隻、潜水艦15隻が失われた。これほどの大規模な艦隊の自沈はスカパ・フローでのドイツ高海艦隊の自沈以来の事であった。
イタリア
イタリア紅海艦隊(マッサワ1940~1941年)
司令長官:カルロ・バルサノ少将(~1940年12月)
マリオ・ボネッティ少将(1940年12月~1941年4月)
1940年6月10日のイタリア参戦時にエリトリアのマッサワ港に本部を置くイタリア領東アフリカ海軍最高司令部司令長官バルサノ少将の配下の艦隊戦力は第3、第5駆逐隊の旧式駆逐艦7隻、第21魚雷艇戦隊の魚雷艇5隻、第8潜水艦隊の潜水艦8隻、水雷艇2隻を主力とする小規模なものであった。
この地はスエズ運河のあるエジプトを抑える敵国イギリスに本国と交通を分断された孤立した地域で、欧州をほぼ制覇したドイツ優勢なうちに同盟国として準備不足のままに急いで参戦したベニート・ムッソリーニがその事を考慮しているとは思われず、また高温多湿な環境は機器の故障を招き、第21魚雷戦隊の実に4隻が機械故障で失われ、潜水艦の空調機器の故障で塩化メチルが漏洩して乗組員が中枢神経に中毒症状を起こす事態となった。そして他のイタリア軍と同様に戦争準備はなされてはいなかった。
そんな東アフリカ海軍最高司令部への上層部からの積極的攻勢命令は到底無理な要求であったが、バルサノ提督は機雷敷設艦オスティアにマッサワからアッサブ沖まで機雷敷設を行わせ、潜水艦を通商破壊に出撃させるなど出来る限りの手を打っていた。
だが、前述の機器故障による塩化メチル漏洩で潜水艦ぺルラとマカレが座礁してマカレが失われ、アルキメーデは12名の死者を出し、貨物船1隻を沈めた殊勲のガリレオ・ガリレイは護衛の爆雷攻撃で機器がが故障して塩化メチル漏洩で乗組員に中毒者を出す状態となって18日に武装トロール船ムーンストーンと交戦の末に降伏し、トッリチェッリはマッサワ沖で23日にイギリス駆逐艦3隻、スループ艦1隻と砲撃を交わして撃沈され、24日にはガルヴァ―二も撃沈され、開戦より僅か二週間ほどで紅海艦隊潜水艦隊は壊滅状態となり、潜水艦による通商破壊戦は失敗に終わった。
其の後は9月6日に潜水艦グリエルモッティが船団のタンカー1隻を撃沈するも、紅海艦隊に通商破壊の機会は訪れず、小康状態が続いていた。
10月21日、今度はイタリア駆逐艦隊4隻が32隻からなるBN7船団を夜襲するも、軽巡洋艦1隻、駆逐艦1隻、スループ艦3隻の護衛の前に第3駆逐戦隊旗艦ヌッロを失い司令コンスタンティーノ・ボルシーニ少佐も戦死して敗退した。イギリス側は駆逐艦キンバリーがイタリア沿岸砲台からの砲撃で航行不能となり曳航され、輸送船1隻が損傷したに留まった。
本国からの燃料が途絶し、備蓄燃料事情が悪化する艦隊では出撃は困難となりつつあり、次第に艦隊は現存艦隊としてイギリスに睨みを利かすだけの存在となりつつあった。
だが、1940年12月後半頃から、当初は戦線整理の為にソマリランド、スーダンから後退していたイギリス軍が遂に反抗を開始。戦局はイタリア軍にとって悪化の一途を辿っていった。
この状況に2月3~4日には駆逐艦3隻がBN14船団を襲撃したものの戦果は2隻の輸送船を損傷させたに過ぎなかった。
昨年12月より司令長官となっていたボネッティ少将は敗色濃いイタリア陸軍の状況からもマッサウ陥落は時間の問題であると考え、長距離航行能力のある艦船をマッサワより脱出させる事にし、2月中旬には通報艦エリトリア、仮装巡洋艦ラムⅠ、ラムⅡを日本に、三月下旬には潜水艦四隻をフランスに向け脱出させていた。
これら脱出組のうちラムⅠは撃沈されたが、エリトリア、ラムⅡは神戸に無事到着し、潜水艦4隻も無事にボルドーに到着する事が出来た。
そして残された長距離航行の出来ない駆逐艦隊には最小限の兵力で最大限の効果を引き出すべく決死的な任務が与えられた。
3月31日には駆逐艦3隻がスエズ運河攻撃の為にマッサワから出撃したが、駆逐艦レオーネが座礁して失われて作戦は中止となった。
4月2日、艦隊に残された駆逐艦5隻がポートスーダン攻撃にマッサワから最後の出撃を行った。その途上で艦隊は陸上機、フェアリーソードフィッシュ雷撃機から空襲を受け、マニンとサウロが撃沈され、パンテーラとティグレは損傷後に自沈し、バッティスティは機関故障後に自沈と4月3日をもって紅海艦隊駆逐艦隊は全滅した。
8日、陸海より包囲されていたマッサワは港湾施設を破壊後に降伏した。
この後も紅海艦隊は6月に占領されるまでアッサブ港に残存艦艇は存在していたが、この日をもって実質的に紅海艦隊は消滅した。
砲撃・空襲で損傷していた水雷艇、機雷敷設艦、砲艦といった残存艦艇が自沈を遂げるなか、まさにこの日に残された魚雷艇MAS213がイギリス軽巡洋艦ケープタウンに魚雷を命中させ、大破航行不能に追い込んだのは紅海艦隊最後の意地であった。
スペイン
無敵艦隊(ブリテン沖1588年)
司令長官:アロンソ・ペレス・デ・グスマン
旗艦:サン・マルティン
日本ではこの名称の他にアルマダで有名であるが、アルマダはスペイン語ではただ艦隊という意味であり、当時は本国では至福の艦隊と呼ばれていたという。
1588年4月29日(年月日は以後全て旧暦)に王位継承権、宗教問題、ネーデルラントのスペインへの抵抗勢力への援助、スペイン船団への私掠船の跋扈などから、スペイン国王フェリペ二世の命を受け、イングランド侵攻の為にリスボンを発った艦隊は主力のガリオン船20隻、ガレアス船4隻、補助艦艇40隻を含む130隻からなる艦隊で、軍隊もその三分の二を占めるフランシスコ・ボバディリヤ将軍率いるスペイン軍、2千名余りのポルトガル軍などからなる1万9千名あまりが乗船していた。
だが、この大規模な艦隊は当初スペイン海軍の父とも言うべきサンタ・クルス侯爵アルバロ・デ・バサン提督がフェリペ二世に試算した規模に比べれば遥かに、そして現実的に数を縮小され、乗船させる軍隊も当初はそれのみでイングランド侵攻を果たすだけの規模のものであったが、今ではネーデルランド総督であるパルマ公爵アレッサンドロ・ファルネーゼ指揮下の駐屯軍の軍勢が侵攻主力となり、艦隊の軍勢はその予備扱いと海戦の為のものに任務を格下げされていた。
その結果、これに対する総数197隻の英艦隊に規模で及ばず、また主力艦の大きさもさして変わらぬものであるばかりか、船楼を廃し、船首が低く船尾が高い英側の帆船は操作性と機動力でスペイン側の帆船を凌駕するものであった。
スペイン海軍は地中海で主に海戦を経験しており、穏やかな海面で自在の機動性を誇るガレー船を重視していたが、1587年4月の艦隊出撃妨害の為のフランシス・ドレイク率いる艦隊のカディス港襲撃で、迎撃に出たラム攻撃が主攻撃法で大砲も僅かのガレー船ではドレイク艦隊の大型帆船に歯が立たない事が判明しており、艦隊には当初40隻の予定だったガレー船は4隻に抑えられた。またレパントの海戦緒戦で活躍したガレアス船はガレー船と帆船の良いとこ取りをしたハイブリッド船として期待されたが、航用性が無く、櫓の為に搭載する大砲の数も限られ中途半端なものとなり、英帆船に太刀打ち出来ないことが後に明らかとなる。
また戦術の相違で、スペイン側が射程距離は短いが強力な重量の大きい砲弾を放つ大砲で敵の帆や帆柱を破壊して行動の自由を奪った後に接舷攻撃で敵船拿捕を図っていたのに対し、英側は威力は劣るものの射程距離の長い重量の軽い砲弾を撃つ大砲を重視し、それで遠距離から敵の船体に打撃を与える事を目的とした。
そして、乗組員の航海能力は四方を海で囲まれた英側が圧倒的に優位であり、スペイン側は風上の位置を取られたり、相手にどうしても追いつけなかったり、彼等にとっては荒れた海でも英側の記録では触れてもいない事さえあるほどであった。
艦隊は本来バサン提督が指揮を執る筈であったが、提督が2月に急逝した為に、この敵に対して様々なハンディキャップを抱えた艦隊の指揮を任される事となったのはメディナ・シドーニア公爵であるアロンソ・ペレス・デ・グスマンであった。
高位の貴族という事で選ばれた善良ではあるが軍隊や艦隊を統率できるような器量は無い人物で、その事は本人が一番自覚しており、フェリペ二世の就任要請に、自分を評価してくれる事を感謝すると共に能力は無い事と船酔いをする事まで持ち出して断っていた程であった。だが、彼は良くも悪くも貴族であり、艦隊が英艦隊の襲撃を受けている場面では必ず彼の旗艦が駆けつける姿が見えたという。またその補佐の参謀長には海軍経験のあるディエゴ・フローレス・デ・バルデスが付けられた。
出港後、嵐を避ける為に寄港したラ・コルニアで、艦隊はそれまで真水が底が尽き赤痢患者が続出する状態であったが、新鮮な水・食料に換え、人員補充を得た。グスマン提督は今迄フェリペ二世に訴えていた遠征中止を艦隊の作戦会議にかけたが反対に遭い6月21日、再び艦隊は遠征の途についた。
7月15日には英仏海峡に辿り着いた艦隊であったが、やがて嵐に遭い、ガレー船4隻を含む5隻を失った。
21日のプリマス沖海戦で艦隊は1隻を爆発事故、ロサリオを衝突事故で脱落させたが海戦自体は英側が砲弾による威力の弱くなる長距離での砲撃戦に徹した為にそれ以上の被害は無かった。しかし、衝突事故を起し船外退去に応じないペドロ・デ・バルデスの乗るアンダルシア隊の旗艦ロサリオをペドロと不仲のバルデス参謀長の意見で見捨てたグスマン提督への部下達の信頼は完全に地に堕ちたという。
23日のポートランド沖海戦、25日のワイト島沖海戦でも激しく戦闘は行われたが、スペイン側は砲の射程距離の短さ、英側は砲弾の威力の無さで互いに致命的な打撃を与える事は出来なかった。だが、スペイン側は砲弾が欠乏し始めていた。
27日、艦隊はカレーに到着し投錨した。だが、肝心のイングランド侵攻部隊総司令官たるファルネーゼ総督は合流予定地のダンケルクに居ないばかりか艦隊に非協力的で、一説では当初から指揮下の軍隊をイングランド侵攻などという危険な賭けに投じるつもりは毛頭無かったと言われる。
28日深夜、艦隊は英側から火船の攻撃を受けた。もっともこの攻撃自体は大体が空振りに終わり、唯一サン・ロレンツォが火船の火の粉で大砲が発火し、混乱のなか僚船の舫い綱で舵を失った挙句に座礁したぐらいであった。だが、この攻撃は艦隊をパニックに陥れ、グスマン提督も狼狽して艦隊に舫い綱を切れと命を下したという。その結果、艦隊の半月陣形は崩れ、各艦は風に流されて暗礁の多いフランドル水域に流される事となった。
この状態を英艦隊は見逃す事は無く激しい追撃が行われた。
グスマン提督とその他の艦隊指揮官達も殿となり戦ったが、英艦隊はもはやそれを無視して追撃を行い、またスペイン側の砲弾が尽きた事から近距離での砲撃で砲弾の威力を上げる事に成功していた。この29日のグラブリーヌ沖海戦で11隻が沈没・座礁・拿捕により失われた。30日、途中より南西の風が吹き艦隊が北西に針路を取れる事で暗礁海域と待ち構えるオランダ艦隊から脱する事が出来ねば被害はもっと大きくなっていたかも知れなかった。そしてもはやイングランド侵攻など不可能である事は明白であり、グスマン提督は艦隊の本国への退却を決断した。戦意の失せた彼はドーバー海峡を引き返さず、北からブリテン島を廻る航路をとった。そして後は指揮を部下に任せるのみであったという。
8月2日には英艦隊も艦隊にイングランド侵攻の意志はもはやないと悟り、追撃は中止された。
だが、艦隊の苦難はこれから始まった。
巻波と岩礁の海岸という難所を正確な地図も無く航海する艦隊は海戦以上の損害を被り、9月13日にサンタンデルに辿り着いた旗艦サン・マルティンと随伴艦はさほど困難に遭遇しなかったが、その他では難破するものが相次ぎ40隻あまりが失われ、それでも溺死せずにアイルランド、スコットランドになんとか上陸できた乗組員も虐殺されるか、飢えで命を落としスペインに戻れたものは僅かだった。またスペインに無事に帰国した艦隊でもチフス・食中毒などの病気・負傷で死亡するものあり、一説では無敵艦隊は最終的に2万以上の人名が失われたという。
グスマン提督は帰港した際にはラッパで帰港を知らせる事は無く、身体が癒えるやセビーリャの領地に回り道をして帰ったという。そして参謀長のバルデスは投獄したフェリペ二世も、周りから軽侮の目で見られるグスマン提督を罰する事は無かったという。
スペインカリブ海艦隊(サンチアゴ1898年)
司令長官:パスクアル・セルベラ少将
旗艦:インファンタ・マリア・テレサ(インファンタ・マリア・テレサ級装甲巡洋艦)
植民地であるキューバの独立派を弾圧する宗主国スペインに対して、国内世論のキューバ独立派同情論から腰を上げざるを得なかったアメリカ大統領ウィリアム・マッキンレーの内戦干渉とも言うべき仲介に端を発したアメリカ・スペイン間の軋轢は1898年2月15日のキューバのハバナ港での米戦艦メインの爆沈事故がスペインの破壊工作であると米世論が沸騰した事により、4月21日にアメリカが、26日にスペインが宣戦布告をして米西戦争が始まる結果となった。
その折にキューバ総督の要請により派遣されたのが、海軍大臣も務めた事があるスペイン大西洋艦隊司令長官セルベラ提督率いる艦隊であった。
8日に既に装甲巡洋艦2隻を率いて提督はカディスを発ち、19日までには進出先のポルトガル領カーボベルデのサン・ヴィンセンテ港で装甲巡洋艦2隻、駆逐艦4隻と合流を果たしていた。
戦艦すら擁する米艦隊に対し、機関整備の必要のある艦すら抱える艦隊の現状ではキューバへの増援は無謀であり、セルベラ提督は反対であったが、本国よりの命令により29日にキューバを目指し艦隊は出港した。その折に提督は「我は生贄として赴く」と本国に送信している。
5月19日、艦隊に同行できない為に途中置いてきた駆逐艦テロールを除く艦隊は、洋上で艦隊を捕捉して壊滅させようとしていた米艦隊を出し抜きキューバのサンチアゴ港に全艦無事に入港した。そしてそれだけが艦隊が得ることが出来た小さな唯一の勝利となった。
入港後、セルベラ提督は脱出の検討以外は艦隊保存主義に徹し、陸上からの米軍の攻撃には陸上要塞に水兵を陸戦隊として送り込み防備に加勢させた。これに対して米艦隊は気船メリマックを自沈させ湾の閉塞を図ったが失敗に終わった。
そんな膠着状態の最中、本国・キューバ総督より艦隊に脱出せよとの命令が下った。それは自殺行為とも言うべきものではあったが命令には背けず、脱出の日は7月3日と決まった。セルベラ提督は旗艦インファンタ・マリア・テレサを犠牲にする事で時間を稼ぎ、僚艦が米艦隊の封鎖網の手薄な西側から脱出させる事を図ったという。
脱出の日の朝、米封鎖艦隊の旗艦である装甲巡洋艦ニューヨークは、艦隊司令長官ウィリアム・サンプソン少将が陸軍との協議に赴く為に不在であり、また戦艦1隻、巡洋艦3隻なども補給などで不在で、脱出を図るスペイン艦隊には僅かでも運が向いていると言えた。だが、それでも封鎖艦隊は戦艦4隻、装甲巡洋艦1隻、砲艦2隻の兵力を擁していた。
脱出を開始した艦隊は沈没しているメリマックによって出港が遅れ、マリア・テレサが予定通り囮として米艦隊に撃ちかかっている間に装甲巡洋艦クリストバル・コロン、ビスカヤは西側に脱出する事が出来たが後続の艦は阻止され喪われていった。
奮戦するマリア・テレサは命中弾多数を受け、艦長ビクトル・バラウ大佐が負傷し、セネガル提督自らが指揮を執る状態となり、やがて提督は艦を陸地に座礁させた。
そしてコロンとビスカヤも艦の整備が充分でなかったのか本来の速力を出せずに、追撃してきた米艦隊副将格のウィンフィールド・シュレイ代将の旗艦米装甲巡洋艦ブルックリンならびに戦艦テキサス、オレゴンに捉えられ、ビスカヤは撃沈され、コロンは奮闘の後に自沈を遂げた。
スペイン艦隊は全艦艇が失われて文字通りに全滅し、470名あまりの死傷者と1600名あまりの捕虜を出し、捕虜の中にはセネガル提督と子息の大尉も含まれていた。
そしてスペイン艦隊の奮闘に反比例して技量の差は明白であり、米側は11名の死傷者をだしたのみで、多数の命中弾を与えた米側と違いスペイン側の砲弾は殆ど当たらなかったと言われる。(サンチアゴ・デ・キューバ海戦)
敗戦の将セネガル提督は後に軍法会議にかけられ禁固一年という不名誉を得たが、戦争での提督の置かれた状況が明らかにされ、その名声は消える事は無かったという。
その他
ABDA艦隊(スラバヤ沖1942年)
司令長官:カレル・ドールマン少将
旗艦:デ・ロイテル
1942年2月、オランダ領ジャワに侵攻する日本軍に対抗して米アジア艦隊司令長官トーマス・ハート大将を司令官としたABDA(A=アメリカ、B=イギリス、D=オランダ、A=オーストラリア)司令部を創設され、数で勝る日本軍相手に4国が連合してあたる事となった。海軍でもABDA艦隊が編成され、司令長官にはオランダのドールマン提督が任命された。
だが、この艦隊は書類上では侵攻する日本艦隊に対抗できる兵力を有していたが、共同訓練・各艦のスクリューの回転整合すら行われておらず、またオランダのドールマン提督は英語を解さず、意思疎通に問題が生じた。
しかし、そんなハンディを抱えながらもドールマン提督は積極的に活動し上陸船団阻止の為にジャワ沖海戦、バリ島沖海戦などを戦ったが、前者では日本軍の空襲で米軽巡洋艦マーブルヘッドが損傷して本国に帰還し、米重巡洋艦ヒューストンは後部主砲塔を損傷。後者では軽巡洋艦3隻、駆逐艦7隻と言う優勢な艦隊を持ちながら拙劣な攻撃で、増援を含めても4隻の駆逐艦しかいない日本海軍を相手に蘭駆逐艦ピートハインを失い、損傷した蘭軽巡洋艦トロンプはオーストリアに向かう事となり、徒に兵力を損耗し乗組員を疲労させるだけに終わった。
それでも、その積極的な行動力は日本海軍に警戒されたといわれる。
一方、形勢不利となっていく状況にABDA司令部ではこのまま兵力を無駄に犠牲にせず、後日温存する為にもジャワ放棄の空気が漂い始め脱出が始まっていたが、ハート提督の後任であり、既に本国はドイツに占領されているオランダのコンラート・ヘルフリッヒ中将にも、艦隊のドールマン提督にもそれは到底飲むことの出来ない事であり、オランダ軍は徹底抗戦の意志を固めていた。
27日、日本船団撃滅の為に出撃した重巡洋艦2隻、軽巡洋艦3隻、駆逐艦9隻からなるABDA艦隊はスラバヤ沖にて第五戦隊を中核とする重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦14隻の日本艦隊と激突した。両軍共に10隻以上の艦隊が参加するアジア方面では日本海海戦以来の大海戦であった。
17時45分頃に始まった海戦は遠距離での同航戦となったが、両軍共に命中弾を得ず、特に水上観測機を飛ばして敵の動向を把握していた日本側にとっては、自艦の射撃に支障をきたすにもかかわらず砲撃回避行動を取る敵艦隊に戦前の想定を崩され失望するものとなった。
だが18時35分頃に英重巡洋艦エクセターの機関に砲弾が命中し速度が低下。また蘭駆逐艦コルテールが魚雷により撃沈され、艦隊に混乱が生じた。
第五戦隊司令官高木武雄少将はこの機を逃さず、水雷戦隊に突撃を命じ、対してドールマン提督も駆逐艦に反撃を命じるも逆に英駆逐艦エレクトラを失う結果となった。だが、幸いにも日本艦隊の攻撃は多くが積極性を欠き、ABDA艦隊は一旦退避する事に成功した。
エクセターに蘭駆逐艦ヴィテ・デ・ヴィットをつけて離脱させたドールマン提督は隊形を整え、再び日本船団を捜し求めたが、燃料欠乏の為にアメリカ駆逐艦4隻が離脱。またドールマン提督の知らない味方機雷原で英駆逐艦ジュピターが失われ、唯一残っていた英駆逐艦エンカウンターも海面を漂っていたコルテール乗組員を救助してスラバヤに向かいった。
こうして巡洋艦4隻だけが残され、駆逐艦の護衛の無い大型艦のみでの夜戦は危険であったが、ドールマン提督は後退することなく尚も船団を求めて進んだ。
28日0時52分にドールマン提督は再び第五戦隊と会敵した。そして海戦の結果、彼の旗艦であるデ・ロイテルと蘭軽巡洋艦ジャワは魚雷を被雷し撃沈された。(スラバヤ沖海戦)
炎上するデ・ロイテルからもたらされたドールマン提督の最後の命令は「ヒューストン、パースは我に構わずバタビアに直行せよ」というものであった。
かくしてオランダ海軍の意地は炎と共に海に沈み、ABDA艦隊の残存部隊は脱出を図るもバタビア沖海戦、第二次スラバヤ沖海戦などでヒューストン、エクセター、パースなどの多くは日本艦隊に掃射され、無事に脱出できたのはアメリカ駆逐艦4隻であった。