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概要

本名、佐久間恪二郎。嘉永元年(1848年)、松代藩士佐久間象山とそのの子として生まれる。義理の伯父に勝海舟(妹は象山の正妻)がいる。

8歳にして父の代筆をするなど、幼いころから父譲りの学才を見せた。


元治元年(1864年)、父に伴って上洛。しかし同年7月11日に象山は河上彦斎らによって殺害されてしまう。白昼堂々刀も抜かずに斬られたとして、佐久間家は断絶処分となった。

露頭に迷う恪二郎は、象山の門人であった会津藩士山本覚馬に仇討ちを勧められ、伯父の紹介で新撰組に入隊。この時、父の幼名にあやかって三浦啓之助と名を変えた。

その直後に起きた禁門の変にも出動している。


仇討ち話に感心した桑名藩主の松平定敬は、松代藩へ掛け合い帰藩を認めさせるが、啓之助は「仇討ちを果たすまでは戻れない」としてこれを拒否した。


啓之助は客人待遇で近藤勇近習となるが、次第に父親譲りの傲慢さを顕し、乱暴狼藉を働くようになる。


慶応2~3年(1866~67年)ごろ、啓之助は芦屋昇らとともに新撰組を脱走。松代へ帰るが、騒動を起こし身柄を拘束された。

その後戊辰戦争が勃発すると、西郷隆盛の取り無しで赦免される。


明治3年(1870年)には正式に松代藩への帰参と家名再興が認められるが、やがて藩との軋轢が生じ、伯父を頼って東京へ出る。

勝の紹介で福沢諭吉慶應義塾(後の慶応大学)に入学するが2年で中退。

その後司法省に入省するが警察官に暴行をくわえ、伊予松山へ左遷させられる。

明治10年2月26日、ウナギ食中毒で死去。


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