足利義康
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あしかがよしやす
足利義康とは平安時代の武士であり、室町幕府を開いた足利氏の祖である。
父の所領である下野国足利荘を相続したことから足利を名字とした。
1142(康安元)年に鳥羽上皇が建立した安楽寿院に足利荘を寄進したことで足利荘の現地管理者である下司となる。
鳥羽上皇の後ろ盾を得た義康は北面武士として都での立身出世を果たし、検非違使や蔵人に任官した。
1156(保元元)年に発生した保元の乱では後白河天皇側につき、平清盛(300騎)や源義朝(200騎)に次ぐ100騎の兵を率いて戦った。
戦後に褒賞として従五位下に叙位されるも、翌年に死去した。
概要の通り異母兄に新田(源)義重がいるが、血族で争う事が多かったこの時代では珍しく特に家督や領地で争う事もなく在京担当の義康.在地開発担当の義重と棲み分けし協調しており、後述の息子達も義康の死後しばらくは義重の保護下にあった。
嫡男(三男)とされた義兼が幼かったため、庶長子の矢田義清と次男の足利義長が朝廷に仕えた。義清と義長は源頼政の乱に参加して敗走した後に源義仲に仕え、1183(寿永2)年に水島の戦いで平教経に敗れ兄弟共々討死した。
一方成長した義兼は源頼朝の挙兵に参加、功績を積んだことで上総国司や源氏一門の上級御家人である御門葉の一人となり、同じ御門葉の一族である源範頼・義経らが粛清・没落していく中でも足利氏は有力御家人として生き残り、室町時代に子孫の足利尊氏が室町幕府を開く原点となった。
ただ室町幕府の滅亡と足利氏の没落の後、江戸時代には豊前小倉や肥後熊本を治める大大名となった細川忠興・忠利父子、平成時代に総理大臣を務めた細川護熙を輩出した細川家が義清の子孫であるのは歴史の皮肉というほかない。
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