概要
南北朝時代に活躍する南朝方の武将、『逃げ上手の若君』にも登場する。
史実については結城宗広を参照。
陸奥鎮守府にあって、一騎当千ではあるが烏合の衆でもある蝦夷を北畠顕家のカリスマのもと南朝方につけ、伊達行朝、中村経長とともに、鎌倉幕府残党軍を破ったのち朝廷から離反した足利尊氏・直義兄弟率いる軍勢を討つため出陣、一度は九州へと追い払う。
その後、足利尊氏・直義兄弟が勢いを盛り返し京の都を陥落させると、顕家は再び陸奥鎮守府より出陣、鎌倉へと軍を進めるうち、得宗・北条高時の次男・時行、新田義貞の次男・義興らも南朝軍に加わると、時行は顕家から伊達行朝、中村経長、結城宗広に引き合わされた。
時行をはじめとする逃若党は伊達行朝、中村経長の武人的な性格に好感をもつが、結城宗広の
「結城宗広です」
「老若男女、一切合切ぶち殺します」
という発言に、諏訪頼重の陣で会った保科党の一人にデジャブーを感じた一同に、宗広は
「我が末子三十郎では?」と明かし親光、顕朝を含む他の子たちが真面目な性格であるのに対し、三十郎の父でもある宗広は
「私たちは人殺しが大好きです!」
「常に生首を見ていないと治まらないのです!」
と涼しい顔で発言。
ちなみに三十郎は息子たちの中で唯一宗広の趣味に理解を示して一緒に殺戮を繰り返していたが、やがて「父上のところで無差別に人を殺すのには飽きました」「どうせなら正義の殺しがしたいです」と言い出奔。信濃まで流れていた事を時行達から知った際には涙ながらに「もっと親子で殺したかった」とこぼした。
それを見て時行達は「あの人まともな方だったんだ」と呆れる。
これらの言動に引く時行に対し、宗広の性癖を知る顕家は「結城は癖以外は温厚で老練な忠義の将だ」と全く動じないのだった。
その後、伊勢から関東・東北地方へ船で進軍していた際、佐々木道誉率いる水軍と交戦し、敵兵の的になってしまった時行を庇い負傷、高齢なのもあって致命傷になってしまい、郎党たちに囲まれて息を引き取った。享年七十。
その時の遺言は、「朝敵の首を我が墓に捧げよ!!」であった。ここでいう朝敵はもちろん尊氏達北朝の武将……だけではなく、南朝に従わない人間全て、しかも日本国外の人間も含まれており、仁徳天皇陵より大きい首塚を作る気でいた。
下手な独裁者より恐ろしい遺言を聞いた郎党たちも流石にドン引きし、「控えめに書いとけよ」と記録役の僧に念押しした。