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二階崩れの変

にかいくずれのへん

二階崩れの変とは、戦国時代に起きた騒動の一つ。九州北部の戦国大名・大友氏の家督を巡る内紛であり、この騒動によって当主・大友義鑑らが死去、代わって嫡男の義鎮(宗麟)が当主の座に就く事となった。
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事件の背景編集

時は16世紀中頃の豊後(大分県)での事。当地にて勢力を拡大していた戦国大名・大友義鑑は粗暴な嫡男・義鎮の器量を危惧し、三男の塩市丸を後継ぎに据えようと画策。塩市丸生母である側室、そして寵臣で義鎮の守役でもあった入田親誠と共に義鎮廃嫡に動き出した。

この義鎮廃嫡への動きの背景には、彼の生母が中国地方の雄・大内氏の出身であり、この時は和睦していたとはいえ、長年の敵同士であった大内氏の勢力を家中から排除せんとする目論見があったとも考えられている。


とはいえ、義鎮にも決して人望がなかった訳ではなくまた能力は十分あったので、当然の事ながら家中では義鎮派と、塩市丸派に分かれて勢力争いが生じる事となる。


義鑑による粛清劇編集

ある時、義鑑は重臣4名を呼び出して義鎮の廃嫡を諮ったが、4人とも義鎮の廃嫡には反対であり、逆に廃嫡を考え直すよう説得を受けてしまう。この事に不満を持った義鑑は、塩市丸の後継を盤石のものとすべく義鎮派の粛清を強行。前出の重臣4名のうち小佐井大和守と斎藤長実(鎮実の父)を始め、義鎮派に与する者達が次々と誅殺の憂き目にあった。

しかしこの暴挙とも言える粛清は、残りの義鎮派の危機感を必要以上に煽る事となり、また塩市丸とその生母への反感をさらに募らせていった。そして身の危険を覚えた彼らは事の元凶ともいうべき、義鑑と側室と塩市丸への襲撃を実行に移したのである。


大友氏館への討ち入り編集

天文19年(1550年)2月10日、府内の大友氏館にて討ち入りが発生した。

討ち入りを実行したのは大友氏重臣(加判衆)の津久見美作と田口鑑親。前述した義鎮廃嫡に反対の重臣4名のうち、残りの2名であった。

津久見と田口の襲撃により館の2階で寝ていた塩市丸、それに塩市丸の生母らは死亡。義鑑も津久見らを斬り捨てるものの、この時受けた傷は極めて重く、死期を悟った義鑑は領国経営に関する文書を認め、義鎮に置文として残すと、わずか二日後の2月12日に49年の生涯を終えた。

この事件の結果、戸次鑑連(立花道雪)ら重臣によって擁立された義鎮が、正式に大友氏の家督を継ぐ事となったのである。


事後処理編集

討ち入りを行った津久見・田口の両名はその場で死去したものの、あくまで義鎮を擁護するためではなく、自衛のために主君を殺したという名目で、残された一族もまた連帯責任を負い処罰を受ける事となった。

また塩市丸派であった入田親誠も、一連の事件の黒幕とされ娘婿である戸次鑑連らによる討伐を受けて肥後へ逃亡。自身の岳父でもあった阿蘇惟豊を頼って落ち延びるが、一連の件における親誠の振る舞いに嫌悪の念を覚えていた惟豊は、逆に彼を誅殺した。

このように、討ち入りを始め一連の事件は義鎮には関わっておらず、あくまでも義鎮派の一部の暴走によるものであるとして幕引きがなされた。


義鎮の関与疑惑編集

しかし上記したような通説に対しては疑問も呈されている。例えば義鑑が死の間際に残したとされる置文は瀕死の重傷を負った身の認めた文書としてはあまりにも整理されたものであり、この事や事後処理の不自然さなどから、義鑑は襲撃のあった2月10日の時点で既にこの世の者ではなく、置文の作成も義鎮の手によるもの、即ち事件への義鎮自身さらには義鎮に近い他の家臣たちの関与も根強く疑われている。


その後も頻発する重臣クラスの反乱編集

二階崩れの変は義鎮の家督相続という形で落着したとはいえ、それでも家中の動揺は相当なものがあったと見られている。実際に、事件からしばらく経った天文22年(1553年)には、服部右京亮ら一部の家臣による義鎮暗殺の企てが発覚、服部や一萬田鑑相(鑑実(橋爪宗慶)の父)らがその首謀者として討伐され、その後も小原鑑元佐伯惟教(宗天)らによる「姓氏事件」、高橋鑑種(一萬田鑑相の弟)、立花鑑載田原親宏田原親貫親子、田北紹鉄(鎮周の兄)など重臣クラスの反乱が次々起こり宗麟の長男・義統の代での大友家凋落の一因になった。


菊池氏滅亡編集

一方で肥後菊池氏の家督を継いでいた、叔父の菊池義武(大友重治)は大友家中の動揺を好機と見て、復権に動いた。しかし義鎮は直ちに義武を義絶し討伐を敢行、島原へ落ち延びた義武や嫡子・高鑑らはその後和平を装った義鎮の一計により自害に追い込まれ、ここに肥後の名門・菊池氏は滅亡を迎えた。ただし筑後・蒲池家の記録では末子の鎮成は生き残ったとされ、今山合戦で戦死した大友一族の大友親貞を鎮成としている。


入田宗和の逆襲編集

一方、二階崩れの変の首謀者として没落した入田氏は、その後事件から30年程経った天正8年(1580年)頃に親誠の遺児である義実が、宗麟によって帰参を許されている。しかし義統の代になると、義実(入道して宗和)は家中での冷遇などから島津氏への内通を決断。その後の島津義弘による豊後侵攻(豊薩合戦)でも案内役を務めるなど、結果的に宗麟は巡り巡って入田氏からの逆襲を受ける格好となったのである。


関連項目編集

事件 大友義鎮 大友義鑑 九州 戦国時代 内乱


  • 武田信玄(晴信):こちらは父を追放で済んだパターン。

弟の信繁も兄に従ったためなんとか丸く収まったが下手をすれば(信虎の評価的にも)

二階崩れの変と同じような状態が起きていた可能性が高い。

  • 斎藤高政(一色義龍):こちらは父を合戦で滅ぼしたパターン
  • 足利茶々丸:父の死後、継母と異母弟を自らの手で討ち堀越公方の座を奪った

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