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菊池義武

きくちよしたけ

菊池義武とは大友義長の次男で大友義鑑の弟。菊池高鑑、則直の父。一説では菊池鎮成(大友親貞)の父とも伝わる。菊池家に養子に入るも兄・義鑑に対立。最後は甥の義鎮に討たれた。(1505年-1554年)
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兄と対立編集

1505年、大友家第19代当主・大友義長の次男として生まれる。初名は大友重治。兄の義鑑に似ず凡庸な人物であったらしい。政治・軍事は家臣に任せきりで、権勢に驕り横暴な振る舞いが多かったとされる。


兄・義鑑は肥後国の名門・菊池氏に目を付け、菊池武包を追放。重治は菊池家を継ぎ菊池義宗と改名した。しかしそれでも義宗は酒を嗜み、国事を務めず、家政を顧みずに横暴を振るった。


義宗は1533年、曾祖父の木野親則を討った事を機に翌年に大内義隆相良義滋と同盟して謀反を起こして義武と改名した。

甥に敗れる編集

しかし大友家の勢力が強かったのか、敗北して逃亡。相良家に逃れて再起を決したが、その度に大友軍に敗れて逃れている。


1550年に二階崩れの変(大友家の内紛)が起こって兄・義鑑が死亡してその子である義鎮が後を継ぐと義武は好機と見て鹿子木氏や田島氏の支援を得て再び隈本城を奪還する事に成功。さらに肥後南部・筑後南部の国人衆と連合して肥後全土の制圧を目指した。


しかし1554年、義鎮が大軍を率いて肥後に侵攻すると敗北して島原に逃亡した。その後、様々な場所を転々とするが11月に義鎮の和睦が決まると帰国を決意。


しかし、この和睦こそが義鎮の罠であるとも知らず義武は豊後への帰還を果たそうとした。しかしその矢先、木原に待ち構えていた大友軍に包囲されて義武は子・高鑑と共に自刃して果てた。享年49歳。


彼の死によって名門・菊池家は滅亡した。


信長の野望編集

天翔記より初登場。この時は戦闘面が高い武将として評価された…かと、思いきや再登場時の烈風伝では使えないステータスまでダウン。現在では散々な扱いを受けている。


一応、現在最新作である「戦国立志伝」では武将プレイが出来るので場合によっては菊池家再興も出来るのだが…天道より少しだけ能力が改善されているとはいえそれでも難易度は非常に高い。


関連タグ編集

大友義鑑 大友義鎮

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