庶長子としての誕生
1489年、相良長毎の長男として誕生した。幼名は六郎丸。初名は長為(ながため)、後に長唯(ながただ)。義滋(よししげ)は彼の最晩年の名前である。ここでは義滋で統一する。
しかし庶子(弟の相良長隆も同様。)であった事が災いし、家督は末弟の相良長祗が第14代目当主として選ばれた。
犬童の乱と家督相続
1518年、父の相良長毎が死去すると義滋の祖父である相良為続の兄・頼金の子である相良長定が姻戚関係にあった犬童長広と結んで反逆を企て始め、相良家の対立が表面化する。
そしてその6年後の1524年に長定が突如として謀反を起こして長祗を襲撃して放逐。家督を強引に奪い取り果てには長祗を水俣城に追い詰めて死に追いやった。
この暴挙に相良家中は納得出来るはずも無く、家臣団は義滋を奉じる事を決意。1526年、長定非難の急先鋒であった弟・長隆(瑞堅)が挙兵。長隆は人吉城を落城する事に成功した。
しかし突如として長隆は自分が相良家の家督を相続する意思を示したのである。だが挙兵時に寺を焼く暴挙を行った事が災いし、長隆に味方する者は1人としていなかった。この為、上村の永里城に逃亡した。
一方で相良家臣団は長隆を生かしておけば必ず禍根になると進言し、すぐに追手を差し向けて討伐するように義滋を説得。義滋は、近在の上村城主で、相良氏一族の実力者の上村頼興に先鋒を依頼したが、宗家の権威は弱く、兄弟争いに巻き込まれるのを嫌ってこれを断ってきた。
そこで義滋は「頼興の長男である頼重(後の相良晴広)を養嗣子にする」との約束して加勢を取り付けた。そして1526年に好機到来と見て永里城に出陣し、長隆を滅ぼした。同時に人吉城に帰還し、相良家第16代目当主として就任したのであった。
内紛の終結と新たな戦略
家督を継いだ直後、北原氏が人吉城へ攻め寄せてくると、策を用いて北原勢を退けた(北原勢はこのとき一向宗を率いていたとされ、相良氏では以降、浄土真宗が禁教とされている)。
更に翌年、犬童氏の反乱が起こると上村頼興の弟の上村長種に討伐を命じ、1529年に鎮圧させた。
後に逃亡した相良長定の所在が発覚すると「過去の事は忘れ、帰参を命じる」(意訳)と甘言して帰参を唆した。義滋は1531年に家臣の西法路(にしのりみち)に命じて法寿寺門外で相良長定を討ち、更に長定の一族郎党を滅ぼした。この結果、遂に1524年から続いた相良家の内乱は終結した。
ただし、領内の確執は続く。
11代以降の当主を輩出している下相良の者と、3代頼俊から10代尭頼までを輩出した上相良の者、守護菊池氏から領有を許されたものの土豪が一揆を形成しているのみならず、地理的に他家に攻められやすく手柄を立てやすい八代の八代談合衆中、この三者の確執と嫉妬は根強く、義滋以降の当主は造反が起きぬよう、数ヵ月毎に人吉と八代とを移動して(稀に葦北にも)、それぞれの地にて政務を執り行うようになった。
また、家老職を置かず、奉行職を家臣の最高位にしているのも三者に気を遣った故と思われる。その理由として、相良氏は豊臣政権に恭順以降より家老職を置いているのだが、上相良は13代義陽の戦死後に義陽の弟の挙兵に従い失敗したことで勢威を失っており、八代談合衆中は義陽の死後に1家を除いて島津家に恭順(その1家は攻められ滅亡)した後、豊臣政権下では佐々成政の与力となっているため、相良としてはもはや気を使う必要が無かったため。
翌年に天草の上津浦治種が連合軍に攻められると援軍を派遣し、大勝した。以降は、肥前有馬氏による天草への介入も懸念されたため、天草鎮護のために八代・葦北・人吉の兵を交代で1,000人ずつ派遣するようになった。更に阿蘇家や菊池義武らと同盟した。
1539年、建造中の渡唐船・市木丸が完成したので、八代徳淵で進水式を行った。徳淵は相良氏の国内・海外貿易の拠点として発展し、この地域で最大の貿易港となった。更に幕府の対明貿易を一手に任された大内義隆と友誼を結び、船団護衛などの名目を取り付けており、琉球やその他とも交易をしていたことが窺える。
1545年、一族の相良治頼が謀反を起こすとこれを鎮定。同年には勅使が船で八代に来航し、従五位下・宮内大輔を叙任した。
翌年、祖父の代から作られていた式目に新たに21ヶ条式目を制定し、8月には晴広に家督を譲って隠居した。そして1ヶ月後の9月19日に58歳で死去した。
信長の野望
覇王伝PK~天翔記、嵐世記~蒼天録、天道PK以降で登場。相良家の武将ではトップのステータスを持っている。