住職就任
1492年、相良長毎の次男として誕生。異母兄弟に相良義滋、相良長祗がいる。
11歳の時に早くから出家し瑞堅と名乗った長隆は、臨済宗の観音寺11世伯元と12世光秀和尚に師事し、後に京都に出て東福寺での修行を行い、永正年間に帰国。同時に観音寺13世住職となった。
当主への野心
1524年、弟の長祗が相良長定によって放逐され、翌年に水俣で自害を強いられると、長隆は憤激し、兄の義滋と共に長定の家督を認めない立場をとった。
1526年、長隆は僧兵や門徒衆を集めて軍勢を立ち上げ、立興寺の僧である亮海を遣わして、長定の罪を咎め、切腹するように勧めて、従わなければ一戦に交えると告げさせようとした。
亮海は一度断ったが、再三の命令で仕方なく従おうとすると、長隆は急に考えを変えて、直ちに出陣の準備を開始した。
5月1日の夜、長隆はあらゆる寺院から掻き集められた僧兵・門徒200人を兵士として人吉城に奇襲を行った。案の定、長定一派は八代へと逃亡した。
これで反乱は鎮圧されたかに見えた。しかし、長隆は大将になった件から次第に兄を差し置いて当主になる野心を高めた。そして奪還から翌日、長隆は通称を太郎として相良氏の家督を継ごうとした。
兄に滅ぼされる
しかし5月1日(人吉城を奇襲した日)の時、長隆は問題行為を犯していた。それは僧籍でありながら奇襲した際に寺院を焼く、その焼いた火によって観音寺の僧舎が全焼し、願成寺の金堂にも延焼するなど大きな被害が出てしまった。
この一件が原因で僧兵・門徒らの心は離れ、家臣や兄・義滋をはじめとした一族も長隆に従わずに誰1人も人吉城に登城しなかった。
僧や門徒衆は協議した結果、「寺院等を焼いた長隆では人心は収まらないので当主は務まらない。長兄の義滋殿なら領内が平静になって民も安堵するだろう。」(意訳)と考え、長隆に永里金蔵院への退去を勧告した。長隆も情勢の不利を察して、上村へと落ち延びる事となった。
しかし長隆の野心は収まらず、それどころか落合加賀守を頼って永里城に籠城し、再び反旗を翻した。
一方、長隆を速やかに討つべきであるとの周囲の声に義滋は促され、当初協力する姿勢を見せなかった一族の実力者上村頼興から、頼興の嫡子である上村頼重を養嗣子とする事を条件に先陣の約束を取り付けると、義滋は永里城へと攻めかかった。
寄せ手に守り切れなくなった長隆は金蔵院に隠棲するが、結局は見つかった為に僧兵が防戦したが全員討ち取られたので、院に火を放った後に自害した。享年34歳。