兄2人を差し置いて当主就任
1501年3月13日、相良長毎の三男として誕生。幼名・満乗丸。初名は長聖(ながのり)。伊東祐国の娘が正室であった事により、嫡男として推薦された。(兄の義滋は豊永氏の娘、長隆は長倉氏の娘でどちらも側室の子であった為に当主として選ばれる事は無かった。)
10年後(1511年)には父から家督を譲られて14代目当主に就任。人吉城主となったが、1518年までは父・長毎が政務を代行していた為に実権は無かった。17歳にして名実ともに正式に相良家第14代目当主になった。
5年後の1523年、21歳の時に長祗と改名した。
養子・長定の謀反
しかし相良家は次第に不穏な空気が流れ始める。それは長祗の祖父で12代目当主・為続の兄・頼金の子である相良長定が嫡流を蔑ろにされたとの思いから不満を強めていた。
更に長祗は若年であり、先代長毎は晩年は長く球磨を留守にしていた。嫡流として家中で信望を集めていた長定は、自分が当主になろうとする野心を徐々に抱き始めた。
やがて長定は1524年に犬童長広と結んで反逆の準備を開始する。長祗はこれを察知して討つべきかと決断を決めようとするが、結局は決断出来ずにいた。
長祗は真意を確かめるべく、長定に書状を送った。長定はこれに対応して偽の誓書を書いて長祗を安心させた。この結果、8月24日に長定軍の謀反に遭って長祗は人吉城を脱出したが、結果的に家督は簒奪されて長定が相良家15代目当主を継いでしまったのである。
長定の奸計に死す
薩摩・出水に逐電した長祗は再起を図ろうとするが、その矢先に長定の書状が届く。それは「家中の奸臣が私を唆したのだ。ここは怒りを鎮めて水俣城に帰還をお願い致す」(意訳)との事だった。長祗はこれを信じて水俣城に帰還する。
しかし書状は嘘の内容であり、実際は長定は長祗が水俣城へ入ったならば討てと命令していたのである。長祗はこれに騙されて水俣城の後方の立山へと逃亡を図る。
だが軍勢の追撃は止まらず、遂に逃げ場を失った長祗は側近の園田又四郎に介錯を頼み、自刃した。享年24歳。
その後、相良家は長男の義滋が家督を継ぐまで実に7年以上の内乱が起こる事となる・・・。