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相良長定

さがらながさだ

相良長定とは相良為続の兄・頼金の嫡男。相良一門では嫡流としては最後の当主。後に長祗から家督を簒奪し、相良家第15代目当主となるがやがて長祗の兄の義滋に討たれた。(生年不明-1531年)
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不運な誕生編集

父・頼金は、相良家11代目当主・相良長続の長男であった。しかし長続は頼金の病弱を考えて三男の為続を12代目当主に決定させた。(為続には長兄の頼金以外にも兄弟がいるが、次兄の頼幡は既に夭折していた。)


更に元々病弱である事が災いして頼金は他の城主になれなかった。中尾山に建てた館に住んで、1人息子を残した。この一人息子が後の長定である。

簒奪の成功編集

長定は自分が正式な嫡流であるという思いを抱き続けて成長。やがて従兄弟で13代目当主の相良長毎が1518年に死亡するとその実子で14代目当主相良長祗が相続し、長祗が自ら家政を掌るようになると次第に奉行である犬童長広と共謀して謀反の計画を立てた。


1524年、長定は偽の書状で主君・長祗を疑わせない様にさせた。そして同年8月24日に60人の手勢で人吉城に奇襲を仕掛けた。案の定、長祗は家督を奪われて薩摩国出水に脱出した。


人吉城に入城した長定は相良家15代目当主に就任する事に成功し、更に翌年には前当主・長祗を滅ぼす計画を立てた。それは恭順を装った書状で水俣城に誘い出し、犬童匡政に討たせる事だった。その結果、計略は成功して長祗は自害に追い込まれた。

当主簒奪の皮肉な末路編集

長祗を滅ぼして自分が正当な嫡流の当主である事を示した長定であったが、長祗の2人の兄である相良義滋瑞堅はこの行為に激怒。


義滋と瑞堅は群臣に長定の非道を責め立てた。この結果、長定の元には犬童一族以外誰一人として従う者はいなかった。家中で協議した結果、義滋を当主として立てた方が良いという声が上がった。


1526年、瑞堅が僧兵など200名余を率いて人吉城を夜襲。長定と長広は家族を連れて八代に逃亡するが、八代の家臣はこれに従わず。長定は孤立無援となり、津奈木城まで逃げ切った。


その後、内乱を制した義滋が人吉城に入って相良家16代目当主となると、追手が仕向けられた。長定は追手を恐れて筑後国に逐電した。


後年、義滋の使者から何度も帰参を命じられた。長定はこれには流石に従わなかった。だが、「かつての事は水に流して、帰参を命ず。帰国してもらえないだろうか?」(意訳)と言われて遂に帰国を決意した。


1531年11月、肥後国に帰還した長定は法寿寺に滞在した。しかし滞在中の最中に突如として現れた義滋の側近・西法路(にしのりみち)に襲われて法寿寺門外で謀殺された。


この帰参発言は嘘の内容であり、帰還を装った書状で法寿寺(長祗が葬られた場所)に誘い出して、そのまま滞在させた後に家臣に銘じて討たせる事だった。この計略で長祗を滅ぼしたのに、その計略は義滋に使われて自分が討たれる羽目となってしまった。更に奇しくも討たれた場所は法寿寺というのはあまりにも皮肉な事だった。


その後、義滋は筑後に残っていた長定の長子・都々松丸を暗殺。更に長定の妻ともう一人の息子である都々満丸を誘い出して殲滅。ここに相良家嫡流は断絶した。

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