概要
生没年 暦仁元年(1238年)~元亨3年(1323年)6月30日
生涯
文永2年(1265年)6月、引付衆に就任。以後、執権・北条時宗のもと要職を歴任する。
弘安6年(1283年)4月、一番引付頭人に就任。
弘安7年(1284年)4月、時宗が34歳で死去し、7月に時宗の嫡男・貞時が14歳で執権に就任した。内管領・平頼綱、貞時の伯父・安達泰盛、連署・普恩寺業時らとともに若い執権を補佐する新体制が始まるが、次第に安達泰盛と平頼綱の対立が深刻化していく。
同年10月、泰盛が主導する「弘安の徳政」が始まる。しかし、御家人の既得権益を侵害する面が強いことから不満も多く、翌弘安8年(1285年)11月、頼綱はそれを口実に泰盛一派を誅殺、実権を握る(霜月騒動)。
弘安10年(1287年)10月、死去した業時に代わり連署に就任する。当初は六波羅探題南方を務めていた北条時村を招聘することとなっていたが、時村の鎌倉下向がまにあわず、代わって宣時が連署に就任することになった。以後14年間職にとどまり貞時を補佐する。
正安3年(1301年)8月、執権を辞した貞時の出家に伴い、宣時も連署を辞任し9月4日に出家、政界を引退し、これ以後、孫・貞直の主宰する歌会に参加するなどしている。
連署就任前に霜月騒動、在任中の永仁元年(1293年)には貞時が頼綱一派を滅ぼす「平禅門の乱」、辞職後の嘉元3年(1305年)には後継連署の職にあった時村が内管領・北条宗方に自邸を襲われて暗殺され、宣時の嫡男・宗宣が宗方を討つ「嘉元の乱」が起きている(一説にはこれら3つの事件に宣時も関与しているのではないかと言われている)。
元亨3年(1323年)6月30日、86歳で死去。朝廷では天皇への奏上が止められ、花園上皇より弔意を表す院宣が遣わされた(『花園天皇宸記』元亨3年七月十三日乗)。
余談
第5代執権・北条時頼の質素倹約の精神を示した有名なエピソードに出てくる「わずかな味噌を肴に酒を酌み交わした家臣」はこの大仏宣時だったという。
宣時はこの話を吉田兼好にし、連日の酒宴をやめるよう北条貞時を諫めたり、14代執権・北条高時の挙行した贅沢な「北条貞時十三回忌」に不満を漏らすなど、時頼の時代とはあまりにちがう北条得宗家の乱れを嘆いていたという。