北条宗政
ほうじょうむねまさ
建長5年1月28日(1253年2月27日)~弘安4年8月9日(1281年9月23日)
鎌倉幕府第5代執権・北条時頼の三男。母は北条重時の娘で時頼の正室・葛西殿。同母兄に鎌倉幕府第8代執権・時宗、異母兄に六波羅探題南方を務め、のちに二月騒動にて討たれることとなる時輔、異母弟に宗頼がいる。幼名は福寿丸。宗政は時頼の息子たちの中では2番目に位置し、時宗共々時頼から大事にされた。時宗の弟として幕政にも参加し、右近衛将監、幕府の評定衆、引付頭人、武蔵守、一番引付頭人を歴任した。
時宗が最も信頼を寄せていた人物と言われており、彼が弘安の役の直後に病により29歳で亡くなった際はひどく落胆していたという。
七仏薬師と鎌倉の聖福寺
時頼は宗政が生まれた年の4月に薬師如来を造立し、2子の息災延命を祈った。翌年には関東長久、2子息災延命を願って寺社を建立し、寺号を2子の名である正寿丸(時宗)・福寿丸(宗政)にちなんだ聖福寺とした。
元不良
若き日の彼は少々やんちゃなところもあったらしく、『吾妻鏡』には「家務ことに無行」と評されている。
大河ドラマ『北条時宗』
※文永の役終戦以降
作中でも時宗の弟として活躍するものの、その運命は史実以上に壮絶なものとなっている。
蒙古襲来にあたり九州・博多での戦に2度参戦するが、文永の役で蒙古軍のてつはうにより片目を負傷して隻眼となる。その時の怪我がもとで、博多から帰還してからしばらくはその事がフラッシュバックして錯乱状態に陥ってしまうようになるが、弘安の役の頃には克服している。それ以降、宗政は眼帯を装着して登場するようになる。
第41話で時宗が蒙古の使者の処刑を命じた際、使者にカンペを使いながら中国語で言葉をかけた。
「請你千萬不要記恨我的哥哥時宗」(我が兄、時宗を恨まんで下され、の意)
弘安の役で再び戦場である博多へ向かった宗政は九州の御家人たちとともに蒙古軍に立ち向かう。だがその夜、博多湾に大嵐が上陸。戦場を蒙古兵ごと飲み込んでいった。そして翌朝、多くの蒙古兵とともに蒙古軍の船に乗り込んでいた時輔が博多湾に流されてくる。謝国明とともに時輔を救出した際、不意打ちしてきた蒙古兵の攻撃によって背中を刺されて死亡した。
「謝国明殿、よかった!兄上が助かり申した!もう大丈夫じゃ、兄上。今、水をお持ちいたす!」(死の直前のセリフ)
その死はあまりに突然の出来事であり、時輔をはじめその現場を目撃した日本側の人々を悲しませた。彼の遺骨と遺品の眼帯は時輔によって鎌倉へ運ばれ、最終話で病床にあった時宗の元へと運ばれた。
なお、第46話で彼の子供たちが登場しているが、誰が師時かどうかは言及されていない。