安達氏
あだちし
概要
安達氏が歴史にその名を表したのは鎌倉幕府・初代将軍・源頼朝に仕えた安達盛長に始まる。
盛長の出自には諸説あってはっきりしない。しかし、盛長の妻・丹後内侍が頼朝の乳母(比企尼)の一族であったことから古くから頼朝に仕えており、頼朝唯一の郎党といってもさしつかえない人物であろう。しかし、その出自の低さから「平家打倒」のために新しく頼朝のもとに馳せ参じた清和源氏、坂東平氏の末裔とされる三浦氏、和田氏、畠山氏ら在地豪族よりも格下に置かれた。
とはいえ、頼朝は盛長邸を私用で訪れるなど信頼厚く、下野国の奉行人もまかせてもいる。
正治元年(1199年)に頼朝が亡くなり、家督を継いだ頼朝の嫡男・頼家に資質がないことが明らかになると、盛長は執権・北条時政・義時父子、侍所別当・和田義盛ら12人の御家人とともに頼家の実権を剥奪、13人の合議制により幕政に参画した。
盛長の後は嫡男・景盛が継いだ。景盛は秋田城介に就任、以後、同職は安達氏が世襲相続した。
景盛の時代から安達氏は得宗・北条氏との結びつきを強めていくこととなる。景盛の娘(松下禅尼)は第3代執権・北条泰時の嫡男・時氏に嫁し、後に第4代将軍・九条頼経を将軍から退かせる第4代執権・北条経時、得宗北条氏の独裁体制を固める第5代執権・北条時頼の母となった。
景盛の嫡男・義景は娘・堀内殿(覚山尼)を第8代執権・北条時宗に嫁し、第9代執権・北条貞時の母となった。覚山尼の兄・安達泰盛は時宗の死後、幕政の実権を握ったが、内管領(得宗北条氏の執事)・平頼綱との対立の末に滅ぼされ、安達氏は一時逼塞する。
しかし、一族は滅亡を免れ、病床にあった貞時は後事と嫡男・北条高時を内管領・長崎高綱、秋田城介・安達時顕(泰盛の異母弟、顕盛の孫)にたのみ、これ以後、幕府が滅亡するまで内管領・長崎円喜・高資父子、秋田城介・安達時顕が実権を握ることとなった。
元弘3年・正慶2年(1333年)5月22日、本拠・鎌倉を新田義貞、足利高氏の嫡男・千寿王らの大軍に攻められ、鎌倉幕府は滅亡し、時顕も北条一族、長崎円喜・高資父子らとともに自刃し、鎌倉幕府とともに栄えた安達氏も滅亡した。 幕政で力をつけるために北条氏とあまりにも結び付きすぎたため、共に滅ぶしかなかったといえる。