概要
元寇に際し、鎮西奉行として九州御家人達の指揮にあたり、父の資能や兄の経資と共に蒙古軍と戦った。八幡愚童訓によると、の文永の役(1274年)で、景資は博多湾沿岸での戦闘において「日の大将軍」であったと言い、景資ないし彼の郎党が蒙古軍副司令官であった劉復亨と思しい人物(流将公)を矢で射止める大功を挙げたと言われている。弘安の役(1281年)にも参陣して奮戦した。
蒙古襲来絵詞には、出陣する竹崎季長を見送る景資の姿が描かれている。
父の資能の死後、兄の経資との間で家督をめぐる争いが起り、弘安8年(1285年)に鎌倉で有力御家人の安達泰盛と内管領の平頼綱とが対立した霜月騒動が起きると、景資は泰盛側に与して泰盛の子で肥後守護代・安達盛宗と共に筑前国で挙兵したが、頼綱側に与した兄・経資の追討を受け、居城である岩門城で敗死した(岩門合戦)。享年40。
登場作品
父・資能とともに九州御家人のリーダー的存在として登場。
元寇では博多における実質的な幕府軍の大将であった。討死にした蒙古兵を執拗に斬りつける平頼綱(演・北村一輝)をたしなめた。
敵の副司令官・劉福亨を発見した時、矢を命中させる。
CV.立花慎之介
蒙古軍の襲来直前に旅僧に変装して対馬を訪れ(少弐氏は対馬の守護)、迅三郎に援軍を送ると約束したが、他の御家人達に本土防衛の遅れを取ることを憂慮する父の資能の妨害で失敗した。
博多編では、九州御家人をまとめて博多湾の合戦に臨む。
敵の副司令官・劉福亨(CV.子安武人)と相まみえ、矢を命中させる。