少弐経資
しょうにつねすけ
鎌倉中期の武将・御家人の一人で、少弐氏の3代目当主。法名浄恵 (じょうえ) 。大宰少弐・大宰府執行職。少弐の姓を名乗るようになった資能 (すけよし) の嫡子に当たり、弟に景資、盛資などがいる。生没年については前述したものの他、嘉禄2年(1226年)-正応2年(1289年)とする説もあるが、少なくとも享年が64であることは複数の資料によって裏付けられている。
史料上での初見は40台に入ってからとかなり遅い方ではあるものの、父の存命時より既に共同で北九州の統治に当たっていたようで、蒙古襲来に際しても異国警護体制の整備や、石塁の築造の統括、勲功配分にまつわる調査などで活躍。弘安4年(1281年)の壱岐島の戦いにおいても、蒙古軍の駆逐に多大な功を挙げるも、この時嫡子とされる資時が討死するという憂き目にも見舞われている。
弘安8年(1285年)、肥後国守護代の安達盛宗(安達泰盛の次男)に呼応して弟の景資が挙兵に及ぶと、経資は北条時定(北条時頼の同母弟)と共に同族の武藤氏や筑前・豊前・肥前の武士団をまとめてこれに応戦、景資らの軍勢を破っている。
後世、「岩門合戦」と呼ばれるこの戦いは、直前に鎌倉にて発生した霜月騒動の九州版ともいうべきもので、経資は父の没後に発生した少弐氏の家督を巡る景資との対立から、安達氏と敵対関係にあった平頼綱の側に与して景資・盛宗勢の追討に当たったものと見られている。
この合戦で勝者の側に立った経資ではあるが、戦後の論功行賞において景資・盛宗側の所領は、弘安の役での恩賞地配分にとっても絶好の機会と見た北条氏によって、その殆どが没収された上で頼綱方の武士たちに恩賞として給与され、さらに当時少弐氏が任じられていた守護職のうち筑後・豊前・肥後のそれを喪失するなど、得宗専制の強化が進んだ代わりに少弐氏の勢力は削減される格好となった。
翌弘安9年(1286年)、幕府が博多に鎮西談議所を設置するのに際し、大友頼泰・宇都宮通房 (みちふさ)らとともに、経資もその頭人に任じられている。経資の没後、少弐氏の家督は長男の盛経が継いでいるが、北条氏による西国支配が強化されるにつれて少弐氏もまた、その配下に甘んじることとなる。