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大友頼泰

おおともよりやす

大友頼泰は、鎌倉時代後半の豊後国における有力御家人。(1222?〜1300)
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生涯編集

1222(貞応元)年、鎮西御家人大友親秀の息子として豊後国に誕生と伝わる。母は三浦家連の娘。初名泰直、童名薬師丸・太郎。従四位下、大炊助、丹後守、出羽守、兵庫頭。法名道忍、号は常楽寺。始祖大友能直と同じく、その生涯の前半は京都鎌倉に在勤していたが、守護国内御家人の所領争論裁決などにも関与し、蒙古襲来の際には鎮西に下向して、筑前肥前両国要害の警固番役の催促、九州在住御家人らの戦闘における軍忠の認定、幕府への注進、国東(くにさき)半島六郷山の供僧らに異国降伏の祈祷を命ずるなどの任務を果たした。この間頼泰は鎮西東方奉行、少弐経資は同じく西方奉行として上記の任にあたった。蒙古襲来以来大友宗家の九州在留が平常化し、幕府の職制として九州の御家人統率と、一族の支配を強め、さらに在地勢力の掌握をふかめていった。特に蒙古襲来後御家人らの恩賞地をめぐる争論は、惣領庶子の対立や、御家人・非御家人間の軋轢を生じ、幕府はその解決のためにも大田文図田帳)作成を必要とするに至った。1285(弘安8)年10月、頼泰は国府大分市)から使者を派遣して、豊後国中の寺社領ならびに権門勢家の荘園、国衙領および領家地頭交名を作成して幕府に注進した。これが『豊後国図田帳』である。1300(正安2)年死去。享年79歳。墓は大分県速見郡大神の常楽寺にある。

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鎌倉幕府

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