系譜
父は懿徳天皇、母は息石耳命の女・天豊津媛命(アマトヨツヒメノミコト)。
概要
4代懿徳天皇の皇子。
懿徳天皇22年に18歳で皇太子となる。
12年後に懿徳天皇が崩御し、孝昭天皇が30歳で即位した。
都は孝昭元年7月に掖上池心宮(わきのかみのいけごころのみや、奈良県御所市)に定め、孝昭29年に世襲足媛命を皇后とした。
『日本書紀』によると113歳(『古事記』では93歳)で崩御した。
皇居
掖上池心宮(わきがみのいけこころのみや。現在の奈良県御所市池之内と思われる)。しかし『古事記』には「葛城掖上宮」と書かれている。
御陵
掖上博多山上陵(わきのかみのはかたのやまのえのみささぎ)に葬られた。
皇統
- 皇后:世襲足媛(よそたらしひめ、天忍男命の娘)
・天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)
・日本足彦国押人尊(やまとたらしひこくにおしひとのみこと、第6代・孝安天皇)
史実性
神武天皇の崩御後は10代崇神天皇に至るまでの間、国内には有事なく、天下はよく治まって基礎がますます固まっていった。そのため『古事記』『日本書紀』に事跡の記事を欠き、戦後は実在しなかったとの見方が通説であった。
しかし記紀に事跡がないのは18代反正天皇以降にも見られ、記録にある都の所在地も正確で、結婚相手も奈良盆地磯城出身であり、国風諡号も後世の創作ではありえないことが今では明らかで、御陵も前方後円墳ではなく考古学的な事実と一致している。そのため戦後の創作説は説得力を失っている。