懿徳天皇
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いとくてんのう
古事記や日本書紀に記される日本国第四代天皇。大日本彦耜友尊(おおやまとひこすきとものみこと)ともいう。いわゆる欠史八代の1人で、戦後は実在しない天皇と捉える見方が一般的であったが、今では実在説の方が説得力がある。
父は安寧天皇。母は鴨王の女・渟名底仲媛(ヌナソコナカツヒメノミコト)。
安寧天皇の第二皇子として生まれ、16歳で皇太子となった。
安寧天皇が崩御すると、懿徳天皇が即位した。
天皇は都を軽曲峡宮(かるのまがりおのみや)に移した。
『日本書紀』では77歳で崩御したとされる。
古今和歌集序聞書三流抄に出雲行幸の際に素戔嗚尊(スサノオノミコト)と会う逸話が記されている。
宮をめぐっては『和州旧跡幽考』に、橿原市大軽町から西南五町ばかりのところの田地に「まはりをさ」と俗に呼ばれる所があり、「まがりほ」の片言だといわれていると書かれている。
神武天皇の崩御後は10代崇神天皇に至るまでの間、国内には有事なく、天下はよく治まって基礎がますます固まっていった。そのため『古事記』『日本書紀』に事跡の記事を欠き、戦後は実在しなかったとの見方が通説であった。
しかし、都の所在地は後世の創作にしては不自然であり、婚姻関係の記録を見ても、懿徳天皇は磯城県主葉江の弟の猪手の娘と結婚したとする異伝をわざわざ注記しており、御陵の形も前方後円墳でなく考古学的な事実と一致するなど、いずれも後世の創作ではありえないことが明らかとなっており、創作説は説得力を失っている。
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