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土肥実平

どいさねひら

土肥実平とは、平安末期~鎌倉初頭に活躍した相模国の武士。独自の武士団を率いて伊豆・相模に一定の影響力を持ち、源頼朝に仕えた。1140年頃~1191年以降没。

概要編集

土肥実平は1140年頃に相模国の有力な武士であった中村宗平の次男として生まれたとされている。

中村氏は遠縁とはいえども元を正せば桓武平氏に繋がる一族であり、坂東においてはなかなかの名族だったと言われている。


実平は現在の神奈川県湯河原町周辺に拠点を持ち、父や弟共に「中村党」という武士団を率いていた。


1180年源頼朝が挙兵した際に相模周辺の武士団は内部分裂したが、実平が率いた中村党は末端に至るまで頼朝側についたことで、信任を得た。


頼朝が山木兼隆を血祭りに上げ挙兵の勢いを得ようとしていた頃、実平は三浦氏を味方につける交渉を行い成功させるも、平家方に組した大場景親傘下武士団と大雨による河川の氾濫で援軍が間に合わず、石橋山の戦いで頼朝は大敗する。

敵軍の追撃が激しく多くの兵士が散り散りに逃げる中、実平は頼朝の側を離れず、洞窟の中に潜伏し探索をやり過ごすを進言し、上手く房総半島へ落ち延びることを成功させた功で信任を得る。


実平は富士川の戦い常陸平定に参陣し、投降してきた梶原景時の取り成しを行い、頼朝から更なる信任を得た。


1183年には木曾義仲である宇治川の戦いに参陣し武勲を立てる。頼朝は西海に落ち延びた平家を討伐する為に、源範頼源義経を代理として派遣し、実平は景時共に軍監に命じられ、一ノ谷の戦い屋島の戦い壇ノ浦の戦いに従軍した。


1189年の奥州合戦に参加し、1190年の頼朝上洛の際には付き従ったとされる。

しかし、1191年を最後に記録が出なくなりこれ以降没したとされるが、1191年説、1195年説、1201年説、1220年説等の諸説あり未だに確定していない。

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