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概要編集

父は一条経嗣、母は東坊城秀長の娘、官位は従一位、摂政関白太政大臣


プロフィール編集

時代室町時代
生誕応永9年5月7日(1402年6月7日
死没文明13年4月2日(1481年4月30日
官位従一位、摂政関白太政大臣
主君称光天皇後花園天皇後土御門天皇
氏族一条家
父母父:一条経嗣、母:洞院実世の娘
兄弟雲章一慶、経輔、兼良、良済、祐厳、良什、義玄
中御門宣俊の娘、源康俊の娘、町顕郷の娘、家女房
教房、尊秀、教賢、尋尊、厳宝、秀高、良鎮、桓澄、慈養、了高、光智、恵助、秀賢、経子、尊好、宗方、冬良、政尊、南御所、高千穂有俊室


経歴編集

応永19年(1412年)に正五位下、右少将となり翌年に従四位上、右中将、従三位となる、応永21年(1414年)に正三位、権中納言、応永23年(1416年)に権大納言、後に右大将、左大将、内大臣に進み、応永31年(1424年)に右大臣となった、応永32年(1425年)に従一位、正長2年(1429年)に左大臣、永享4年(1432年)に摂政となる、文安3年(1446年)に太政大臣、翌年の文安4年(1447年)に関白、享徳2年(1453年)に関白を辞任、応仁元年(1467年)に関白に再任したが応仁の乱で邸宅が焼かれ興福寺大乗院の門跡である子尋尊の元へ逃れた、文明2年(1470年)に関白を辞任、文明5年(1473年)に出家、文明9年(1477年)に帰京。


人物編集

有職故実では『公事根源』・『江家次第抄』・『代始和抄』・『世諺問答』・『二判問答』などの著者を著した、また日本書紀纂疏の著者でもある。


外部リンク編集

一条兼良 - Wikipedia


関連タグ編集

公卿 室町時代 一条家

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