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後土御門天皇

ごつちみかどてんのう

第103代天皇。応仁の乱当時に在位し、波乱の生涯を送ったことで知られる。
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生誕から即位まで編集

 嘉吉2年(1442年)、室町幕府・第8代将軍足利義政の治世において、後花園天皇の第一皇子として生誕、諱は成仁(ふさひと)といい、長禄元年(1457年)、親王宣下を受けた。父帝・後花園帝の在世中、世は度重なる土一揆や第6代将軍・足利義教の暗殺に始まる嘉吉の乱(1441年)などの争乱、南朝の残党による反乱の頻発、政務に倦んだ8代将軍・足利義政の豪勢な遊興によって大いに乱れ、見かねた後花園帝が義政に政務に励むよう諫言を加えられるありさまであった。

 

 寛正5年(1464年)、父・後花園天皇の譲位を受けて、翌寛正6年(1465年)に即位、後花園上皇は東洞院において院政を開始、出家後、文明2年(1470年)12月に崩御した。


応仁の乱編集

 応仁元年(1467年)、将軍継嗣をめぐって足利義政の嫡男・義尚と義政の弟・足利義視との間に紛争が勃発、これに義尚の母・日野富子(義政の正室)が介入、管領の畠山・斯波両家の跡継ぎ問題、山名・細川両家による勢力争いが重なって大乱へと発展し地方へと波及、戦国時代の始まりともいわれ、11年にも及ぶ応仁の乱が始まった。

 文明9年(1477年)、東西両軍を指揮した山名宗全細川勝元が相次いで死去したことにより応仁の乱は終結したが、京都を舞台にしたこの争乱に都は荒廃し、皇室や公家の所領は略奪され、朝廷の財政は逼迫、幕府の権威も地に落ちたが、その一方で将軍・足利義政は政治にかえりみることなく遊興にふける所業をくり返し、義政の正室・日野冨子も米相場や高利貸しに手を染めるというありさまであった。

 この間、皇室財源は枯渇、寺社や公家の邸宅も多くが被災し天皇自身も義政の室町第に逃れるなど、廷臣の中にも地方に逃れるものもあり、多くの皇室行事は中止を余儀なくされた。


皇室行事の再興、挫折、そして崩御編集

 文明11年(1479年)、修復の完了した土御門内裏に還幸、天皇は「有職故実」に詳しい関白・一条兼良らを招いて「儀礼」の再興を目指し、朝臣に元日節会の実施を促したり、古来の儀礼について調査を命じたが財政難もあって、結局、天皇の願いがかなうことはなかった。


 明応9年(1500年)9月、36年の在位の末58歳で崩御、費用不足のため43日も葬儀が行われず、践祚した第一皇子・勝仁親王(後柏原天皇)も「即位の礼」が行われたのはその22年後だったという。


皇統編集

・勝仁親王(第104代・後柏原天皇

・尊伝入道親王

・皇子

・皇女

・皇女

・智円女王

・理琇女王

・皇女

・応善女王

・仁尊法親王

・皇子

  • 不詳

・慈勝女王


補足編集

 漢字6文字表記は「後土御門天皇」以外に例がなく、かつ一番長い表記である。


関連タグ編集

天皇 室町時代 戦国時代 室町幕府 足利義政 日野富子 応仁の乱


皇位

第102代第103代第104代
後花園天皇後土御門天皇後柏原天皇

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