松前慶広
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まつまえよしひろ
松前慶広とは安土桃山時代から江戸時代初期の大名。
蝦夷徳山館主・蠣崎季広の三男。母は河野季通の娘。兄には南条広継の正室となっていた姉に毒殺された蠣崎舜広と明石元広がいる。天正10年(1582年)、父・季広の隠居に伴い当主となる。父と共に安東愛季に協力し安東家中での発言力を確保し愛季逝去後は嫡子・秋田実季に仕えた。天正18年(1590年)、実季の上洛に蝦夷地代官として帯同し実季を出し抜いて前田利家を介し豊臣秀吉に謁見し所領安堵され任官もされ秋田家から独立した。翌年の天正19年(1591年)に発生した九戸政実の乱には豊臣秀次率いる討伐軍に参加した。文禄2年(1593年)に秀吉から蝦夷地支配の公認の朱印状を受けた。文禄4年(1595年)に季広が病死した。秀吉の死後の慶長4年(1599年)に松前に改姓し慶長9年(1604年)に徳川家康から蝦夷地の独占権を認められ松前藩主となった。親豊臣派の四男・由広と対立し大坂冬の陣前に誅殺、大坂夏の陣には徳川方として参陣した。元和2年(1616年)10月に逝去。享年69。この4ヶ月前には家康が逝去している。長男・盛広は先立ち早世していたため、嫡孫である盛広の長男・公広が2代目藩主となり後を継いだ。ちなみに七男・安広は伊達政宗に請われて仕え片倉重長の娘を娶った。その子の片倉小十郎(景長)は継母・阿梅(実父は真田信繁)と共に伊達騒動の後始末で奔走した。彼の外孫の仙台藩五代藩主・伊達吉村は慶広の玄孫で政宗の曾孫に当たる。
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