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矢沢頼綱

やざわよりつな

矢沢頼綱は真田幸隆の弟。村上氏並びに武田氏に使えた猛将で、武田氏滅亡後は真田氏の親族衆として真田家存続の為に力を発揮した。1518~1597年。

概要編集

矢沢頼綱は、1518年に信濃小県真田郷の国衆の海野棟綱の次男あるいは三男として生まれたとされる。兄には真田幸隆がいる。当時の海野氏は隣接する矢沢氏と敵対関係にあったが、それを解消させる為に矢沢家に養子入りする。


1530年代後半になると甲斐を統一した武田信虎諏訪頼重と和睦し武田氏の信濃侵攻を始まる。それに対して海野氏等の反武田氏の国衆は関東管領であった山内上杉家と同盟を結ぶことで対抗する。

しかし、武田氏に領土を巡って対立していた村上義清が和睦し、武田・諏訪氏の同盟に加わり、三者合同で海野氏の領土に侵攻し、合戦になるも大敗し、海野氏は領土を奪われ、棟綱と幸隆は上野の長野業正の元に落ち延びる。


その間頼綱は京の鞍馬寺で僧と修行していたとされている。その後頼綱は還俗し、信濃に戻ってくるが主家が滅亡していたことを知り、義清の元に仕官し砥石城の足軽大将となる。


一方で、兄幸隆は武田晴信の家臣となっており、信濃衆として智謀を遺憾なく発揮し、着実に成果を上げていく。そのような中で晴信は信濃統一のために義清と戦うも、1548年の上田原の戦い、1550年砥石崩れで多くの重臣を失う大敗を喫している。


幸隆は堅朗な砥石城を力攻めで落とすのは無理だと判断し、調略で落とすことを選択。幸隆は城内いた頼綱に接触し、頼綱は城内の人間関係や構造に関する情報を送ったり、調略を進めたりした。そうした甲斐あって1552年に幸隆は砥石城を乗っ取ることに成功し、その功績が認められて本領を取り戻すことが出来た。


頼綱も武田家家臣となり、幸隆の共にに北信や上州を転戦。幸隆が病で信綱に家督を譲ると信綱を支え、長篠の戦いで信綱が討死するとその跡を継いだ昌幸を支えている。


1579年には武田勝頼の命令で昌幸共に東上野に侵攻、昌幸は周辺の豪族を調略する傍ら、頼綱は沼田城を攻撃している。翌年に藤田信吉金子泰清らを調略し、沼田城城主沼田景行を謀殺し、沼田城を乗っ取ると沼田城の城代となる。


1582年に織田信長による甲州征伐で武田家が滅亡すると、頼綱含む真田家は織田家家臣の滝川一益の配下になる。しかし、本能寺の変で信長が死亡し、一益らの織田家の勢力が上州から駆逐されると、一度は真田家は北条氏政の傘下に入るも、離反した為数千の兵を率いた北条氏邦に攻撃を受けるが、老練な猛将であった頼綱は500もの手勢で度々撃退している。


1585年には鳥居元忠以下8000の徳川軍が上田城に攻め込みそれを昌幸が撃退した。同時進行で氏邦が沼田城に2万以上の大軍で攻め寄せるが、降伏勧告をしてきた北条軍の前で使者を三度も殺害して、氏邦を激怒させる。そうして冷静さを失った北条軍を、伏兵と火計を応用したゲリラ戦で翻弄して見事撃退に成功する。


その後も度々北条軍の侵攻を受けるがこれを撃退し、1589年豊臣秀吉の仲裁によって沼田城を北条方に明け渡すが、協定に北条が違反した為小田原征伐が起き、北条家は滅亡する。沼田城は真田家に返還されるが頼綱は高齢であった為、隠居し嫡男頼康が継ぐ。


1597年に病死。享年80。

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