概要
明応8年(1499)前将軍足利義稙に党した延暦寺衆徒を攻め、京都の土一揆を鎮圧し、同年末以来古市澄胤を助けてしばしば大和に侵入して多数の衆徒国民を圧迫し、かたや河内の畠山尚順を紀伊に駆逐するなど、主君政元の手足として軍事活動を行い、また幕府料所河内十七箇所の給人や近衛家領山城国五箇荘の請所代官となった。永正元年(1504)薬師寺元一とともに政元を廃してその養子澄元を擁立したことで排斥されたが、翌年赦され、同三年畠山義英・尚順を追ってまたも大和に入り、法華寺・多武峯などを焼き、寺社領を押領し、三好之長と結んでヒャッハーした。
しかし、同4年6月丹後で一色義有と対戦中、政元の暗殺(細川殿事件・永正の錯乱)を聞き帰京しようとしたが、宮津で国人一揆に襲われ、自殺した。