鷹狩
たかがり
よく飼育、訓練した鷹を放って、兎や野鳥を捕らえる狩り。広義では、鷹意外にも隼(はやぶさ)、刺羽(さしば)などの猛禽を使った手法全般を指す。
歴史
中央アジアで紀元前2000年頃から行われており、最古の正確な記録としては、紀元前700年代のアッシリアや、紀元前600年代の中国は周で行われていた事が分かっている。
ヨーロッパには紀元400年ごろ、フン族とアラン人の侵入の際に持ち込まれたと考えられている。
日本には古代に朝鮮半島から伝来したといわれ、仁徳天皇の時代に貴族の遊びとして盛んに行われたという記録が記紀に残っており、古くから公家・武家の間で行なわれた。
中世、狩りは武士にとって戦の予行演習や鍛錬の手段でもあった。戦国時代には、家老以下の身分の者による私的な鷹狩りを禁止する内容が分国法に見られる(『長宗我部氏掟書』第六条)ことから、鷹狩りが一種の身分的ステータスとなっていた事が窺える。
当時のエピソードとして、織田信長は鷹狩を頻繁に楽しみ、諸大名から鷹を献上させたり、鷹匠を手厚く保護したという記録が残っている(信長公記)。また、豊臣秀吉は奥州征伐後、在地大名たちに鷹の献上を命じ、鷹の産地を蔵入地に設定するなど、鷹の確保を制度的に整備している。
江戸幕府を開いた徳川家康も大いに好み、鷹狩をしている銅像が駿府城にある程。一富士二鷹三茄子の語源とも言われるほど、家康は鷹狩を愛した。
江戸時代になると、戦国時代までは認められていた公家の鷹狩は禁止され、武家のみが行える行為となった。これは、中世を通して鷹狩が武家の象徴的行為であるのと社会通念が形成されたことを意味すると評価されている。
鷹狩で捕獲した獲物は、将軍や天皇など上位者に献上されたり、逆に家来や領民に振る舞われたりもした。
狩猟用の猛禽を訓練する職人を鷹匠と言い、鷹場と呼ばれる場所で鷹の訓練を行った。封建時代は鷹の持ち主である主君の近臣として仕える身で、中には本多正信のように重臣として出世を遂げた者もいる。近世までには多くの鷹匠がいたが、銃猟が中心となった現在ではその数は大幅に減少している。