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富樫政親

とがしまさちか

富樫政親とは、室町後期の武将・守護大名。領国である加賀を巡って他の大名や同族との抗争を繰り広げるも、その過程で協力関係にあった本願寺門徒の統率に失敗、一向一揆の攻撃の前に攻め滅ぼされた。(1455年?-1488年)

生没:康正元年(1455年)? - 長享2年6月9日(1488年7月17日)

別名:鶴童丸(幼名)

官職:加賀守護


平安期より加賀に勢力を張っていた名門・富樫氏の第17代当主。

政親が生まれた当時、富樫氏は一族内での守護職を巡る争いが深刻化しており、これが一応の決着を見た後も、時の室町幕府の有力者の一人である細川勝元の介入などもあり、富樫氏による加賀支配にも揺らぎが出始めていた。

実際に政親が4歳の頃、長禄2年(1458年)には勝元の働きかけで赤松政則が加賀北半国の守護職に任ぜられ、それまで北半国の守護であった父・富樫成春が追放されたため、政親の幼少期はこれを奪還するための戦いに明け暮れる事となった。

一方で、応仁元年(1467年)から始まった応仁の乱では、その勝元や赤松政則の属する東軍に政親は与しているが、この時弟の幸千代が山名宗全の誘いを受けて西軍に参加、ここに富樫氏の家督争いが再燃する事となる。

当初は真宗高田派や、甲斐敏光(隣国・越前の守護代で西軍の将)の助力を得た幸千代側が有利で、文明5年(1473年)には幸千代側に敗れた政親が一時当主の座を追われる憂き目に遭ったが、ここで政親もまた寺社勢力の助力を得る事を画策、宗主蓮如の呼びかけに応じた本願寺派門徒や、それに帰依する加賀の国人衆の支持により、再度富樫氏当主の地位を奪還せしめた。


しかし、この一連の家督争いを通して本願寺派門徒の影響力を思い知った政親は、これを抑制すべく様々な施策を講じ始める。

その手始めとして、当時吉崎御坊(現・福井県あわら市)を在所としていた蓮如を当地から追放し、さらに門徒の多くも越中へと追放したのである。さらに幕府9代将軍・足利義尚より近江守護・六角高頼討伐(鈎の陣)への参加を命じられると、政親はこれを加賀一国の支配を認知してもらう好機と見て従軍、同時にそれにかかる戦費を課す事で、門徒やそれに繋がる国人たちの勢力を削ごうと試みた。

ところがこうした政親の施策に対し、門徒たちは戦費を収めるどころか、窪田・徳田など国人衆の助力を得て大規模な反乱を起こしたのである。討伐軍に参加していた政親はこの報せに接して急遽帰国し、かつて幸千代側に与していた真宗高田派の助力を取り付けるも、既に一揆軍は10万ともいわれる程の大勢力に膨れ上がり、これを抑える事は最早不可能であった。

そして長享2年6月9日、政親と嫡男の家延(又次郎)は居城である高尾城(石川県金沢市)にて自刃。政親に助力した真宗高田派の門徒もその多くは加賀を追われ、やがて一向宗が禁教となった越前で勢力を取り戻すことになった。この高尾城落城の折、真宗高田派の10世上人である真慧の元に政親の妻が身を寄せており、後に11世上人となった応真は真慧の内室となった彼女の連れ子、即ち政親の遺児である。


戦後、かつて父の代に家督を争った富樫泰高(政親の大叔父)が、一揆勢の擁立により三度当主の座に就いたがあくまで傀儡に過ぎず、主導権は本願寺より派遣された宗主代理(蓮如の子である蓮綱、蓮誓、蓮悟)の一門衆が握った。また政親の死後に将軍・義尚が検討した一向一揆討伐も、義尚の陣没などもあって実行に移される事はなく、ここに天正8年(1580年)の尾山御坊の陥落まで、約90年にも及ぶ「百姓のもちたる国」が成立したのである。


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室町時代 加賀 一向一揆

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