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簡体字:胡锦涛

繁体字:胡錦濤

英語:Hu Jintao

(1942年12月21日 - )


概要編集

1942年12月21日に上海に誕生して江蘇省で育った。第4代中華人民共和国最高指導者で、党総書記・党中央軍事委員会主席・国家主席・国家中央軍事委員会主席を務めた。中国語発音ではフー・チンタオ、またはフー・ジンタオ。家柄の良くない胡は政治活動に興味を抱き、読書に没頭していた。授業態度は真面目で、家での予習復習も怠らなかったために成績は優秀で、小学校を飛び級で卒業した。中学・高校と進学して高校では体育以外の科目で90点以上を取り、3年次には級長に任命されている。高校卒業後中国の工学系最高学府である清華大学へ進学する。


大学時代は演劇部の部長を務め、かかあ天下で知られる現在の妻と知り合うなど、かなりリア充な生活を送っていたとされる。しかしこの時期の中国は毛沢東による文化大革命の真っ最中であり、教師や知識人は迫害を受けていたが、若き胡錦濤は教師となるべく大学院へ進学した。


大学院卒業後は教師にはならなかったものの、水力発電のエンジニアとして内陸部へ赴任する。

この時の勤務成績が優秀であったために上層部から気に入られ、後に胡錦濤派の支持基盤である中国共産主義青年団(共青団)の甘粛省支部長(第一書記)に指名された。


文化大革命が収まった頃に胡耀邦総書記と出会い、彼に弟子入りを果たす。しかし胡耀邦が失脚すると胡錦濤はチベットへの赴任を命じられた。表向きはチベット自治区の伍精華党委員会書記が重病のため辞職し、その後任として2つの貧困地区での経験を買われて適任と判断された為だが、事実上の左遷である。


チベットでは当時暴動が起きていたが、戒厳令を敷くことで見事に鎮圧し、その決断力が再び中央への栄転へと繋がる。


49歳の時に党中央委員会常務委員と党中央書記処書記に就任した。事実上江沢民総書記の後継者として内定した。その後院政を行おうとした江沢民の妨害を切り抜け、無事に最高指導者となった。


党総書記として編集

2002年11月に党総書記となった胡錦濤は中国を「民主文明を持った政治大国」とするべく、漸進的な政治改革を進めた。


和諧社会編集

党総書記と国家主席就任後に国務院総理(首相)に任命した温家宝と共に掲げたスローガンである。1990年代に始まった改革開放政策を機に都市と地方の格差が拡大し、それが官僚の腐敗・民族対立などと相まってデモ・暴動・騒乱が増加していたため、中国語で調和を意味する和諧を盛り込んだスローガンを掲げた。しかし抜本的な格差是正は出来ておらず、和諧社会の到来はまだ先だと見られている。


対日姿勢編集

歴代の党総書記の中では比較的穏健である。その態度は反日教育の緩和・日本からのODAに感謝の意を中国の首脳で初めて述べたことなどに見られる。


尖閣諸島についても有耶無耶に領有権主張を促すのではなく、あくまでも相互理解のもとで解決していくべき姿勢を貫いている。反日的な部分が全く見られない訳では無いが、これは派閥争いの激しい党内部で露骨に親日アピールをしてしまうと、それだけで売国奴のレッテルを貼られて今後の政治活動に影響を及ぼす恐れがあるためである。

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