概要
凹凸のある版の凸部分にインクをつけて印刷する凸版印刷の一種。活字を並べた組版(活版)を直接紙に転写する。
現在主流のオフセット印刷と比較すると、インクにじみや「かすれ」、活版を押し付けたことによる紙の微妙な凹み感が生じるのが特徴。当然、文字の印刷にしか使えないが、図版や写真を用いる場合は版を別に作って活版に組み込んでいた(写真は濃淡を網点で表現する網点凸版を用いることが多かった)。これでは微細な濃淡が表現できないため、絵画や写真アルバムの用途にはコロタイプ印刷(平版印刷)やグラビア印刷(凹版印刷)が用いられたが、これらは活版と一緒に刷ることができなかった。
活版印刷は20世紀中盤までは盛んに使われたが写植の発展で廃れ、21世紀の現在ではアナログ感やレトロ感を求めるステーショナリー用途くらいにしか使われない。金属活字自体も新たに製作してくれる職人がいなくなったため、活版印刷技術自体がロストテクノロジーと化しつつある。活版印刷設備を残している印刷所でも名刺程度のオーダーは請け負ってくれるが、活版印刷本を丸々一冊、というところはほとんどない。
それでも印刷された文字を「活字」と表現するなど、その影響は色濃く残っている。
起源
同じ文書を手書きで写すという方法(写本)は、手間暇が膨大にかかり誤記などのミスも起こりやすいため、「版を作ってスタンプのように押すことで大量のコピーを作ろう」という発想が出た(凸版印刷の誕生)。
まず考案されたのは木版画のように一ページずつ版を作る方法であった(整版印刷)。これも版の制作に時間がかかるので、字の部品を大量に作って、それを組み替えることで版を創ればいいじゃないか、という発想が起こった。これが活字の始まりである(活版印刷の誕生)。木製の活字もあるが、再利用すると版がすり減りやすいため、鉛などで丈夫な金属活字が鋳造されるようになった(金属活版印刷の誕生)。
歴史
西洋における印刷物の普及に大いに貢献し、火薬と羅針盤に並ぶルネサンス三大発明の一つ。...なのだが、どれも起源は中国にある。
北宋時代の11世紀半ばに畢昇という人物が「陶活字」を使った印刷を行なった記録があり、これがか確認できる世界初の活版印刷である。13世紀には朝鮮半島の高麗王朝に活版技術が伝わり、これが金属活字に発展する。朝鮮王朝では国家事業として金属活字による様々な印刷物の刊行が行われた。
活版印刷は、ヨーロッパにおいて飛躍的に進化を遂げることとなる。というのもアルファベットの大文字と小文字+数字+いくつかの約物(コンマ、ピリオド、ハイフンなど)の数十文字があればだいたいの文章は書けるからである。
1455年、ヨハネス・グーテンベルクがワイン絞り機を元に作り上げた活版台による聖書の発行が、ヨーロッパにおける文芸復興(ルネサンス)、宗教改革の到来に大きく影響を与え、以降写真植字(写植)が普及する20世紀まで書籍や雑誌印刷の主流を占める印刷方式として君臨することになる。
しかしながら、活字を1文字ずつ拾って並べて活版を作るのは手作業であり、途轍もなく手間がかかる(宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』内でジョバンニがやってたアレ)。これを劇的に改善したのが19世紀末に登場した自動鋳植機(じどうちゅうしょくき)である。キーボードで打ち込んだ文字を1文字ずつ(モノタイプ)、もしくは1行分まとめて(ライノタイプ)鋳造して文字のブロックを作ることができる機械であり、「第2のグーテンベルク」とまで呼ばれた革命的な出来事であった。その後、1970年代に写真植字機(写植機)が普及するとその座を譲ることになる。
日本では文字数の多さもあり自動鋳植機の普及は新聞など一部に限られ、それも第二次世界大戦後の1950年代になってからであった。昭和初期に写研が世界に先駆けて写植機を量産販売するが、戦前には映画や軍関係など需要は限られ、印刷業界において写植/写真製版の本格的な浸透が始まったのは戦後である。戦後、高度経済成長期にかけて写真製版と平版オフセット印刷が台頭するが、活版印刷が完全に過去のものになるのは1980年代に入ってからだった。
関連イラスト
この作品は活字を使っていないので活版印刷というより多色刷り凸版であるが、「凸版を直接紙に転写する」という印刷手法自体は同じである。