「肥前の熊」龍造寺隆信の曾祖父。水ヶ江龍造寺家初代。少弐家臣として活躍するも後に馬場頼周の策謀によって2人の息子と4人の孫を失うも最終的に頼周を倒し龍造寺を再興に導いた。
プロフィール
- 生没年:1454年〜1546年
- 諱:家兼
- 通称:孫九郎
- 号:剛忠
- 官途名:山城守(自称)
概要
水ヶ江龍造寺家を興す
龍造寺家13代当主・龍造寺康家の5男。
家兼は龍造寺本家である村中龍造寺家の本城がある村中城(のち佐嘉城)の近くにある水ヶ江城の城主になり水ヶ江龍造寺家を興した。長兄・家和の次男である胤久が継いてからは村中龍造寺家の衰退もあり家兼が補佐するようになった。
だが、家兼は武勇かつ智勇に優れていた為に何と本家の実権を掌握するだけではなく、主家に当たる少弐氏の筆頭家臣にまで上り詰めた。
家兼がその名を轟かせたのは76歳になっていた1530年のことである。大内義隆が筑前守護代・杉興運を総大将として少弐攻めを行った。室町時代の少弐家と大内家は血で血を洗う抗争を繰り広げ互いに当主が戦死していた。大内は盛見(足利義満に滅ぼされた大内義弘の弟)だけだが少弐は満貞・資嗣・教頼と当主が次々戦死していた。そして当時の当主・少弐資元(頼忠)の父である政資と資元の長兄・高経もまた父共々大内義興に討たれていた。
家兼は主君を救援すべく田手畷に出陣。また同じく少弐家臣である馬場頼周や鍋島清久(直茂の祖父)も加勢して杉興運率いる討伐勢を撃破し、大内軍を撤退に追い込んだ。
資元を見捨てる
1534年、義隆は豊後国勢場ヶ原の戦いで大友義鑑の部将の吉弘氏直(高橋紹運の祖父)らを討ち取るも痛み分けに終わる。その後、陶興房(晴賢の父)を大将とした軍勢を肥前に送り村中城を攻めさせたが、家兼は興房を破った。興房は力攻めは無理と判断し家兼に対し資元の隠居と資元の子・冬尚への家督委譲、少弐氏による東肥前の領有の保証という条件を出して和睦の仲介を依頼した。資元も度重なる大内氏の侵攻に耐えられなくなり家兼の進言を受け義隆と和議を結んだ。しかし、この和議は謀略で翌1535年に資元は義隆に領地をすべて取り上げられた。結局、全てを失い見捨てられた形になった資元は1536年に多久城で自刃し、家兼は「主君を見捨てた裏切り者」と罵られる様になる。その後冬尚が17代目当主となると家兼は和解。のちに剃髪して剛忠と号し龍造寺一門と共に威勢を振るう。
龍造寺家を再興する
しかし少弐一族の馬場頼周を初め少弐家臣団は資元を見捨てて、その息子・冬尚に仕えた剛忠を許さず、更に家中で専横を極める次男の家門ら龍造寺一門に対し頼周らは暗殺計画を立てていた。
そして1545年、事件が発生した。それは剛忠の子(家純・家門)と孫(家純の子である周家・純家・頼純、家門の子である家泰)が馬場頼周・神代勝利らに襲撃されて暗殺された。ちなみは家純と周家は享年がはっきりしておりそれぞれ67と42だった。
さらに本拠地の水ヶ江城も頼周に呼応した有馬晴純(晴信の祖父)に攻め落とされたため、剛忠は筑後に逐電し、柳川城主の蒲池鑑盛の保護を受けた。そして再起を図るべく1546年に蒲池氏の支援を受けて挙兵し頼周に反感を持っていた鍋島清房や千葉胤連も加勢した。この時、清房は冬尚が頼周に援軍を出せないように仕向けていたため馬場勢は独力で戦うことになった。龍造寺勢は頼周の嫡子・政員を討ち取り頼周を捕えて処刑し家兼は肥前に復帰を果たした。この時、龍造寺家の将たちは家純たちが受けた報復として馬場親子の首を足蹴にすることを主張したが政員の妻が剛忠の孫娘であったこともあり丁重に葬り政員の子の鑑周を敢えて討たなかった。
隆信に後事を託す
翌1546年、剛忠は病に倒れ、曾孫で周家の長男・円月坊を還俗させ胤信(のち隆信)と名乗らせ後継者にすると後事を託して死去した。享年92歳。
彼が生まれた年に関東で享徳の乱が勃発している。同じ時期に生まれた武将として(新説では)北条早雲こと伊勢新九郎(宗瑞)、武田信玄の曾祖父である信昌、伊達政宗の玄祖父である尚宗などがおり、彼が没した年には武田勝頼・最上義光が生まれている。
フィクションにおける龍造寺家兼
- 信長の野望シリーズ
初登場は覇王伝PK。その後は将星録・天翔記・天下創世以外に登場している。革新では架空シナリオで登場。天道からは再び大名で登場しているがPKでは少弐家臣として設定されている。なお、息子の家純や孫の周家は嵐世紀・蒼天録・天道にしか登場していないが、能力値はあまり高くない。