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馬場頼周

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ばばよりちか

馬場頼周とは少弐一門・馬場家の出身。後に主家の権威を凌ぐ勢力を持った龍造寺家兼の暴挙に激怒して一度は家兼の一族郎党を殲滅に追いやるが、逆に家兼に討たれた。(????-1546年)

田手畷の戦い

肥前馬場家は元を辿れば少弐家第14代目当主・少弐教頼の弟・少弐頼経が起こした家であり、頼周はその始祖である頼経の孫として誕生した。父は馬場頼員。

当時の少弐家は相次いで時の当主が大内に敗れて戦死する事態が続いていたが、頼周の主君で16代目当主・少弐資元は家臣・横岳資貞や大友親治などの支援を得て御家再興を果たす。1524年には妻の父・筑紫満門(筑紫広門の曾祖父)が大内家に通じているが、頼周はわざと大内家に帰順すると見せかけて筑紫満門をそのまま謀殺した。

1530年には大内家臣・杉興運が少弐領に侵攻(田手畷の戦い)し、この時に少弐家再興にて活躍した横岳資貞が大内方へ寝返るなど劣勢の少弐勢は、敗色が濃厚であった。しかし頼周や龍造寺家兼、更に援兵としてやって来た鍋島清久・清房親子の活躍もあって興連は敗走。大内方では寝返った横岳資貞や筑紫尚門(筑紫正門の兄?)が討死して大内の勢力は一度撤退した。

資元の死と龍造寺への復讐

だが、数年後には態勢を立て直した大内軍が総大将を杉興連から陶興房(陶晴賢の父)に交代すると形勢は再度逆転し、少弐家は再度追いつめられる。更に田手畷の戦いで頼周と共に活躍した家兼が既に大内方の調略を受けて中立を保つと資元はやむなく大内家に降伏した。

しかし大内家当主・大内義隆は初めから少弐家を許す気は無く少弐家を降伏させては領土を全て大内領に吸収に成功。加えて領土を全て失った資元に対して追撃をした。

進退窮まった資元は梶峰城にて自刃して果て、少弐家は一度滅亡。資元の嫡男・冬尚は小田氏の元に落ち延びる。数年後には冬尚と家兼は和睦し、1540年には遂に少弐家を復活に成功し、家兼は一族郎党と共に少弐家の重臣として属した。

だが、頼周は「資元様を見捨てておきながら、冬尚様には忠義を尽くして自分の一族郎党を重臣にする…裏切り者の一門が主家を仕切ってなるものか!!」(意訳)と過去の裏切りと現在の専横に義憤を感じて龍造寺氏への復讐を画策するようになっていく。

復讐の成功と家兼の逆襲

しかも家兼の裏切りに怒りを覚えていたのは頼周だけでは無く、ほとんどの家臣団がこれに怒りを覚えていた(その中には後に龍造寺との戦いに捧げた神代勝利もいる)。

1544年末、頼周は主君・冬尚に「家兼を残していればきっとお家は滅んで大殿も捨てられまする」(意訳)と讒言。この讒言に冬尚も承諾し、頼周は龍造寺一門駆逐のための謀略を練った。

そして1545年に行動を開始。まずは嘘の出陣命令を出して家兼の軍勢を各所に出動させて分断を謀り、各個に撃滅して敗退させる。そして和睦で家兼を蒲池鑑盛を元へ追いやった隙に家兼の長男・龍造寺家純を始めとした6人を殲滅。生前の専横に対する怒りのあまり、6人の首級を罵倒しては足蹴するなどさんざん侮辱した。同時に頼周は家兼は最早再起出来ないと確信したのであった。

その後は長男・政員と共に祇園岳に城を築き統治しようとするが、築城中の1546年に突然現れた龍造寺家兼の軍勢に襲われてしまう。態勢を立て直せない頼周は本拠地・綾部城への退却を図るが、その最中に家兼に味方した千葉胤連軍の攻撃を受けて長男・政員は戦死した。もはや本拠地に逃げれないと悟った頼周は社家に身を隠すも、最後は加茂弾正に捕縛されて家兼の面前で処刑された。

家兼が既に90以上の老齢と侮った事が、頼周にとっては命取りとなってしまったのだった。とは言え『治乱記』には「博学にして才知あり、忠心深くまた下賤を憐れみし者なり」と高く評価されている。

なお龍造寺家と馬場家の因縁もこの後も続き頼周の孫である鑑周も龍造寺隆信と戦い続けた。一時は隆信に降ったものの今山合戦の時に大友宗麟に寝返っている。

家兼同様に覇王伝PKから参戦。一度は龍造寺一門を滅亡寸前に追いやった事から知略のステータスが高め。(ただし家兼には及ばない)

初期の生年は1486年だったが、現在は毛利元就と同じ1497年に変更された。

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