立花誾千代(たちばな ぎんちよ)は戦国時代の女性。父親は立花道雪(戸次鑑連)。夫は立花宗茂。
表記揺れ: 立花ギン千代
概要
37戦37勝した大友家の猛将・戸次道雪の娘として1569年に生まれた。
道雪は娘の名前を決めるにあたり、肥前・加瀬の高僧である増吟に依頼したことが記録に残っている。増吟は「和らぎ慎む」「慎み人の話を聞く」という意味合いを持つ『誾(ぎん)』の字を当て、誾千代(ぎんちよ)姫と名付けた。
道雪晩年の子にして一人娘(姉や兄がいたという説もある)だったためか誾千代は溺愛されて育ち、立花家の跡取りとして育てられることとなった。その結果、(名前に反して)父に似て気性が激しく、武芸に秀でた娘に育つ。そして、わずか7歳にして立花城の城督・城領・諸道具の一切を譲られて家督を継ぐこととなる。その際、大友家の許可の下、男性当主が家督を相続するのと同じ手続きをとった。このことにより戦国時代でも稀な女性当主となった。
1581年、高橋紹運の長男・統虎を婿に迎える。時に統虎(宗茂)は15歳、誾千代は13歳であった。
豊臣秀吉の命により宗茂が柳河城へ移る際、立花山城の明け渡しを命じられるが、誾千代は父の墓のある立花山城から離れることを断固拒否し、夫婦は別居するようになった。しかも宗茂が浮気をしている事を知った誾千代は激怒して本格的防御拠点・宮永館なる場所に居を移した。それから誾千代は「宮永殿」と呼ばれるようになる。
時勢を見る目は敏かったようで関ヶ原の戦いの際は徳川方に付くことを宗茂に勧めたともいう。しかし、宗茂は西軍に付き敗北し居城の柳河城を鍋島直茂らに攻められてしまう。これに腹を立てたのか地元の農民に命じて徳川方や鍋島軍の船を使えないようにしてはいるが、柳河へ一切援軍をよこさなかった。
※一般的には夫である宗茂とは不仲であるとされるが、宗茂との関係を示した確固たる資料は発見されていない。ただの噂ではあるが、二人が不仲だったのは単に誾千代がツンデレだっただけとも言われている。
宗茂が徳川に下り肥後に移されると、誾千代は同行せずに肥後国玉名郡腹赤村(現熊本県玉名郡長洲町)の農家に隠居するが2年後の1602年にこの世を去る。享年34歳。
誾千代の菩提寺は良清寺(福岡県柳川市西魚屋町)で、立花宗茂が瀬高(福岡県みやま市)上荘の来迎寺の僧で、戦国時代の柳河城主の蒲池宗雪(鑑盛)の孫になる応誉を招いて開かせたという。
また最期の地、熊本県玉名郡長洲町に彼女の物と言われる墓があり、形状から「ぼた餅様」と呼ばれている。
没後218年経った文政3年(1820年)に誾千代に「瑞玉霊神」、夫宗茂に「松陰霊神」の神号が贈神された。
立花誾千代の逸話
誾千代の逸話には、女性当主という肩書きや父や夫の影響からか烈女としての逸話がいくつか存在する。
- 宗茂が「文禄・慶長の役」で不在の際、無類の女好きであった秀吉は、誾千代を言葉巧みに名護屋城に呼び寄せ手込めにしようとしたが、それを察知した誾千代は、付き人の女中に鉄砲を持たせ、自らも武装して悠々と入城した。秀吉はそのことに恐れをなし、手も足も出なかったという。
- 加藤清正が宗茂に柳川城の開城を説得すべく九州に進軍した時、「街道を進むと宮永という地を通ることになりますが、ここは立花宗茂夫人の御座所です。柳川の領民は立花家を大変に慕っておりますから、宮永館に軍勢が接近したとあればみな武装して攻め寄せてくるでしょう」と警告されたため、わざわざ宮永村を迂回して行軍した。
- 関ヶ原で敗北した時には、甲冑を着込み自ら出陣し、攻め寄せる東軍を威嚇したとも伝わっている。
登場作品における立花誾千代
『戦国無双』シリーズ
『殿といっしょ』
父の道雪に似た顔立ちで、父親と同様、吹き出しが角ばっている。「し」「す」の発音が「チ」になる。3歳ながら言動がはっきりし、大友宗麟も驚かせる幼女。
『うっかり戦国四コマかいこ』→かいこ
父道雪に似た黒髪ぱっつんの髪型に、夫立花宗茂と似たアシンメトリデザインの衣装。
夫に対して世間一般基準のツンデレよりずっとデレてはいるのだが、数少ないデレを女心の読めない宗茂が完全にスルーしてしまう結果、愛情表現が空回ってしまっている事が多い。
関連タグ
立花宗茂 立花夫婦 島ギン 無双 ツンデレ 立花道雪 ぎんぽっぽ
松田聖子−誾千代の菩提寺、良清寺の初代住職を務めた応誉(筑後国の大身国人・蒲池氏の一族)の直系子孫。