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間宮林蔵

まみやりんぞう

江戸時代後期の徳川将軍家御庭番、探検家。日本列島の最北にある島、樺太の探検で知られる。

概要編集

常陸国筑波郡上平柳村(後の茨城県つくばみらい市)に農民の子として誕生。後に算術や測量の才能を見込まれ幕府の下役人となった。

江戸で測量家村上島之丞に師事し、彼の従者として蝦夷地に同行、そこで伊能忠敬と出会い、師弟関係を結ぶ。


文化5年(1808年)、幕府の命により松田伝十郎に従って第一回サハリン島探検に出発、樺太南端のシラヌシ(本斗郡好仁村白主)でアイヌの従者を雇い、松田は西岸から、林蔵は東岸から樺太の探索を進めた。林蔵は多来加湾岸のシャクコタン(散江郡散江村)まで北上するが、それ以上進む事が困難であった為、再び南下し、最狭部であるマーヌイ(栄浜郡白縫村真縫)から樺太を横断して、西岸クシュンナイ(久春内郡久春内村)に出て海岸を北上、北樺太西岸ノテトで松田と合流、彼と共に北樺太西岸ラッカに向かい、文化6年6月(1809年7月)、宗谷に帰着した。

翌月、報告書を提出後、第二回サハリン島探検へ出発。樺太南端のシラヌシから樺太西岸を北上するルートを進み、第一回の探索で到達した地よりも更に北に進んで黒竜江河口の対岸に位置する北樺太西岸ナニオーまで到達し、樺太が半島ではなく島である事を確認した。(この発見が樺太と大陸の間が間宮海峡とよばれる所以である)。

更に林蔵は、清国の役所が存在するという黒竜江(アムール川)下流の町「デレン」の存在、およびロシア帝国の動向を確認すべく、他国の大陸に上陸することは重罪と知りながらも、海を渡ってアムール川下流を調査した。

樺太北部の探索を終えた林蔵は文化6年(1809年)、宗谷に戻り、松前奉行所へ出頭し帰着報告をしている。『東韃地方紀行』、『北夷分界余話』としてまとめ、翌年文化8年(1811年)『北蝦夷島地図』と共に幕府に提出した。


樺太(サハリン)が島である事を確認し間宮海峡を発見した事で知られおり、未知のアイヌ民族の世界を探検した功績から近藤重蔵(幕府旗本・探検家。択捉島はじめ蝦夷地各地を調査)、平山行蔵(幕府御家人・兵法家。勝海舟の父・勝小吉の師)と共に「文政の三蔵」と呼ばれる。


また、シーボルト事件にも関わっており、シーボルトから間宮宛に小包を送ったが、間宮は御庭番として外国人との私的な贈答は国禁に触れると考え、開封せずに上司に提出したことが露見に繋がったと思われる。


また、後年には竹島事件という浜田藩松平家の密貿易の証拠をつかんで大坂町奉行に報告するなど隠密活動にかかわっていたことが記録として残っている。こうしたことから広義では彼も忍者といえるだろう。


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日本地図 測量 探検家

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