生涯
薩摩藩士時代
1836年2月(天保6年12月)、薩摩藩士である五代秀堯の次男として生まれる。幼いころから優秀で世界地図を模写し、彼の才能を愛した薩摩藩主・島津斉彬により「才助」と命名された。
長崎に海軍伝習所(海軍士官養成のための教育機関)が開設されると、その伝習生として留学。勝海舟らとともに西洋の航海術や砲術、数学などを学んだ。汽船の買い付けのために密航同然で上海へ渡航し、海外を目の当たりにした。
文久3(1864)年の薩英戦争では乗っていた蒸気船ごと拿捕され、イギリス海軍の捕虜となってしまう。開放された後も、幕府では五代らの責任を追及する声、藩内では英国との内通を疑う声があり、しばらくは身を潜めていた。
しかし、この時の経験をもとに藩に対し、英国留学生の派遣や軍備・産業・教育の重要性とその計画について細かく書かれた上申書を提出した。藩はこの上申書に応じ、五代は晴れて帰藩となった。
慶応元年(1865年)には薩摩藩の遣英使節団の一員としてヨーロッパに留学し、機械の購入や視察・外交に奔走。フランスでは貿易商社設立契約やパリ万博への出品委託を行った。
帰国後は薩摩藩の商事を一手に握る会計係に就任。国際経験の豊かさを買われ、外交問題の解決や薩摩藩の殖産興業を推進し、西郷隆盛や大久保利通とともに明治維新に貢献した。
明治時代
明治新政府でも経験を大いに活かし、「外国事務掛兼大阪府権判事」として、外国に開港したばかりの大阪で、各国との貿易取締や折衝の責任者として活躍した。
明治2年には横浜に転勤を命じられるも、政府を退き実業家に転身。再び大阪に戻り、維新後の社会の激変によって疲弊していた大阪経済の立て直しに奔走した。
携わった事業も枚挙に暇がなく、
- 日本で初めて英和辞書を印刷した大阪活版所
- 鉱山管理会社・弘成館
- 製藍会社・朝陽館
- 造幣寮(現・造幣局)
- 大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)
- 大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)
- 私立大阪商業講習所(現・大阪市立大学)
- 大阪青銅会社(現・住友金属工業)
- 神戸桟橋会社(現・川崎汽船K-LINE)
- 大阪商船(現・商船三井)
- 大阪堺鉄道(現・南海電気鉄道)
など、明治18年(1885年)に49歳の若さで死去するまで、多くの事業の設立に関わった。
五代の興した事業は私利私欲に走るものではなく、全て国益を重視したのもで、今に残るものは少ない。しかし、五代の興した事業、ビジネスモデルのもとに多くの企業が生み出され、後の大阪の発展の礎となった。大阪経済の復興に力を尽くした五代は「大阪の恩人」と呼ばれている。
渋沢栄一と並ぶ近代日本経済の立役者であり、主に東京で活躍した彼と双璧をなして「東の渋沢、西の五代」と称されている。
演者
余談
2023年まで一部の教科書では黒田清隆による開拓使官有物払い下げ事件に関与した人物と紹介されるという風評被害も甚だしい扱いを受けていたが、後の研究で彼は黒田からの申し出を断っていたことが判明。やっとその記述が削除されることとなった。