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服部敬雄

はっとりよしお

山形県の実業家。別名服部天皇、山形の首領(ドン)、山形のヒトラー
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1899年12月10日生まれ。1991年3月14日没。服部天皇山形の首領(ドン)山形のヒトラーと呼ばれるほど強い力を持っていた。

山形新聞社社長、山形放送社長、山形テレビ相談役、山形交通(現・山交バス)会長を歴任。山形の地元メディアを中心に強大な権力を持っており、県政にも影響力を持っていた。

なお彼が亡くなった時山形県民の中には赤飯を炊いてお祝いした世帯があったという噂もある。

服部天皇の罪としてのエピソード

  • 『朝日ジャーナル』で、1985年に服部の特集が組まれたことがあり、載せられるたびに山新・山交グループによる相当数の買い占めが行われた。当時の編集長は筑紫哲也。
  • 服部天皇の影響力が強かった当時、山形県には民放テレビが山形放送山形テレビしかなく、服部の意向が2局の番組編成にも及んだ。アニメ「忍者ハットリくん」を「タイトルが気に食わない」という理由で打ち切り。バラエティ番組「11PM」を「内容が気に食わない」理由で打ち切った(なお、青森放送秋田放送北日本放送山口放送南海放送なども「11PM」をほぼ同じ理由で打ち切っており、さらには日本テレビに対し、似たような内容のバラエティ番組を複数抱えている事を理由に三行半を突きつけかけた)。
  • 山形初代藩主「最上義光」を湛える歴史ある祭りの「義光祭(ぎこうさい)」を「花笠まつり」に変更させた。また義光に批判的で、編纂の進んでいた『山形新聞』『山形県史』『山形市史』にも意向が反映された。
  • 山形市の中心部に、山形新聞グループが経営していた山形グランドホテルがある。同ホテルでイベントが開催された際、小規模なイベントでも山形新聞グループのマスコミ各社が取材に訪れた。逆にここで起こった食中毒事件は、NHKを除き県内で一切報じられなかった。
  • 山形グランドホテルのライバルであるホテルキャッスルは開業時に山新と山形放送に広告を拒否され、1989年にテレビユー山形が開局するまで県内のマスメディアに広告を出稿できず、大きなイベントがあっても山新グループがほぼ取材に来なかったので「ホテルキャッスル」という言葉が山形の報道機関で報じられることは全くなかった。
    • ちなみにホテルキャッスルは、山形空港開港時に服部が直接懇願し、東京-山形線を就航させた全日空と提携しているが、ライバルである日本エアシステム山形支店は、山新グループの山形グランドホテルの一角を間借りするというねじれ現象が起きていた。
    • ホテルキャッスルの向かいに山形商工会館が移転、観光物産館も開設される計画があったが、服部が猛反対し、計画の中止を余儀なくされた。
  • 戦後の労働争議で追放された経験から、労働運動への警戒心が強く、配下の企業では労働組合の存在が認められていない(当然のことながらこれは不当労働行為)ことが多かった。社員に対する訓示では「アカは嫌いだ。組合運動をするなら会社を辞めろ」が口癖だったという。その影響で山交バスの労働組合は交通労連に所属している。
  • 山形テレビは当初はNETテレビ(→テレビ朝日)系列(ANN)で開局する予定で、朝日新聞系や毎日新聞系の株主が多くいたほか、開局前の研修もNETテレビ(→テレビ朝日)や毎日放送(当時はANN準キー局で関西地方におけるNETの系列局)で行っていた。ところが開局直前に株式を巡る株主間の対立が発生したため、服部が調停に入り山新グループに組み込まれたほか、系列も服部と鹿内信隆の友好関係からフジテレビ系列(FNN/FNS)に変更された。
  • 1975年4月からフジテレビ系列(FNN/FNS)主体で(NETテレビ→)テレビ朝日系列(ANN)とのクロスネット局に移行していた山形テレビでの朝日新聞社の影響力が増大してテレビ朝日系列(ANN)のフルネット局にネットチェンジされる事態を恐れた服部は、山形新聞の直系で日本テレビ系列(NNN/NNS)の単独ネットだった山形放送を1980年4月から日本テレビ系列(NNN/NNS)とテレビ朝日系列(ANN)のクロスネット局に移行させて、山形放送のクロスネットの関係で放送出来なくなった日本テレビ系列(NNN/NNS)の一部番組をフジテレビ系列(FNN/FNS)の単独ネットに移行した山形テレビに移行させた。それにより山形放送と山形テレビはともにどこの系列なのか分からないような番組編成になり、山形県民の困惑と猛反発を買った。
  • FM山形の開局に当たっては、服部はFM山形を山形テレビの子会社にした上で、FM山形の本社を山形テレビ本社(山形市城西町)に併設しようと画策していた。しかし、マスメディア集中排除原則を理由にFM山形の本社は山形テレビの本社から離れた山形市松山に設置されることになったため、服部はFM山形の開局には一時的ながら反対に転じた。
  • テレビユー山形(TBS系列(JNN))の開局に当たっては、服部は山形新聞社に経営の主導権を握らせようと山形市周辺の政財界と協力してダミーの免許申請を行い、「山形県第3民放テレビ局庄内誘致推進協議会」を組織した庄内地方の政財界と対峙した。しかし、マスメディア集中排除原則を理由にテレビユー山形の本社を酒田市(演奏所は山形市)に設置するなどTBSは庄内地方の政財界を支持したため、服部はテレビユー山形の開局には一時的ながら反対に転じた。
  • テレビユー山形(TBS系列(JNN))とFM山形の開局には前述の理由から当初は反対の立場を示し、対抗策として当時フジテレビ系列(FNN/FNS)に属していた山形テレビでバブル期に映画の出資、金貨の発行、バイオ科学研究所を設置したが失敗し、バブル崩壊も重なり経営難に喘いだ。
    • 山形テレビはフジテレビに経営支援を要請するが、当時のフジテレビ会長だった鹿内宏明「経営が傾いたのは自己責任である」として、支援を拒否。正に服部の独裁が唯一敗れたケースと同時に、失意のまま1991年に服部は死去。皮肉にも服部の死後に宏明会長も1992年7月21日に日枝久フジテレビ社長(当時)等のクーデターで失脚してしまう。
    • 服部の死後、山形テレビは株主の朝日新聞や相馬大作元酒田市長などの意向で1993年4月1日にテレビ朝日系列(ANN)にネットチェンジしたが、人気番組を多く抱えていたフジテレビ系列(FNN/FNS)からの一方的なネットチェンジは山形県民からの猛反発を受け、大きな「罪」となった。ちなみに山形テレビのネットチェンジと同時に、日本テレビ系列(NNN/NNS)とテレビ朝日系列(ANN)のクロスネット局だった山形放送も日本テレビ系列(NNN/NNS)のマストバイ局に移行している。
    • 山形県のネット局を失ったフジテレビは急遽新局の開局に動き、山形県の政財界、フジテレビ、岩手めんこいテレビ仙台放送秋田テレビ福島テレビ新潟総合テレビの後押しや山形県内の署名活動もあり、1997年4月1日にさくらんぼテレビが開局。同時に山形県の民放4局化も実現した。
  • 服部の死前後、グループ企業と自己の権威を保持するために進出を阻止され続けていた全国チェーンのコンビニやマクドナルドがようやく進出した。マクドナルドは1990年12月に山形県1号店の山形やよい町店をオープンした。これは1990年5月にオープンした旧ソビエト連邦(現在のロシア連邦)のモスクワよりも遅いほか、モスバーガーが1980年3月に山形県1号店の山形七日町店をオープンさせてから10年後のことであった。

服部の功としてのエピソード

罪としてのエピソードばかりが目立つが功としてのエピソードもないわけではない。

  • 庄内平野は海運で全国ネットワークが確立されていたが、山形市など山形盆地は周囲が山に囲まれ、全国の交通ネットワーク確立が遅れていた。そのため、航空ネットワークを作ろうと安孫子藤吉山形県知事と服部の主導により官民合同の空港設置同盟会を結成。開港運動を進めた後、1964年に神町空港として開港した(翌年に山形空港に改称)。開港後に服部は旧知の仲であった全日空の美士路昌一社長とそれを引き継いだ岡崎嘉平太社長に直接懇願し、山形空港開港から1か月後、全日空による東京-山形線が就航した。
  • ドラマ西部警察の山形ロケを成功させたのも彼の功績の一つ。静岡ロケで猛抗議を受けた市街地へのヘリコプター着陸を堂々と行い、酒田市でのロケでは酒田市消防本部の全面協力を取り付けた。ちなみにこの山形ロケの際、制作も担当した石原裕次郎が服部に頭を下げ全面協力を依頼したとされている。

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