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概要編集

フジテレビの会長を務めた人物のひとり。急逝した鹿内春雄先代会長の妹・厚子の夫であり、婿養子で旧姓は佐藤であった。銀行マンだったからか礼儀作法や金銭感覚に厳しかった。


来歴編集

大まかな前史編集

1945年5月26日生まれ。東京都出身。一族は医師の家系であった。

東京大学卒業後日本興業銀行(興銀、後にみずほ銀行設立に参加し消滅)に勤める。

1972年11月に鹿内信隆創業者の娘にして春雄の妹である厚子と結婚、春雄からすれば「歳上の義弟」であった。

1988年4月16日に春雄が42歳の若さで急逝。これに伴い信隆が代表に復帰、日枝久を社長に据える裏で、宏明を養子に迎えるダブルスタンダードを取りフジテレビは鹿内家が支配を続けるの意思表示も表していた。

なお、宏明はこれに伴い興銀を退職したが、厚子は家族の人間性(特に母、つまり信隆の妻)などから猛反対、興銀側も「あそこに行くならスタッフ5人は一緒に連れて行った方がいいよ」とアドバイスしたものの、それを押し切る格好で興銀を退職・フジテレビ入りした。


3代目会長になるも…編集

しかし、1990年10月29日に信隆創業者も死去し、宏明は3代目会長に就任する。興銀で若いながらも辣腕を振るっただけあって、礼儀作法や金銭管理が厳しく、自らの出社や退社には全社員が出迎える様厳命するなどの怪文書が飛び交ったほか、経営が悪化していた当時の系列局の経営支援を「経営支援の条件としてフジテレビや関西テレビの持ち株比率増強と恒久的なFNSへの従属」を要求。処が意外にもその系列局は当時の親会社だった地元新聞社と共にその条件を拒否した為、「経営が傾いたのは自己責任である」として支援を拒否し、これ等の事が後々禍根を残す事になる。


まさかの失脚とその後編集

宏明会長の唯我独尊ぶりに社員や経営者の不満は日に日に高まり、1992年7月21日に日枝久社長(当時)等の経営陣が決起、宏明会長は失脚し、鹿内家の支配はここに終わりを告げる。なお、宏明は失脚直後、自分に付いてきてはくれた2人の人間に対し、「あいつ(日枝)が首謀者だったんだな…参ったなあ……」と嘆いたという。一方で日枝社長(当時)等の体制立て直しも空しく、この出来事の影響で先に上げた地方局は他局ネットチェンジと言う結果を引き起こしてしまった。


その後もニッポン放送の株式を通じてフジテレビに睨みをきかせてはいたものの、結局はほとんどの株を売却した。これにより鹿内家はフジテレビに対する影響力をほぼ失ったことになる。

そして宏明本人はイギリスに移り住むことになり、現在に至る。


代表作編集

就任期間が短かった事と専制君主のマイナスイメージがある為、悪く見られがちたが、会長就任以前は「魔法少女ちゅうかなぱいぱい!」の打ち切り危機を主役交替のうえで「魔法少女ちゅうかないぱねま!」として続行することで打ち切り危機を回避し、「美少女仮面ポワトリン 」をヒットさせたほか、会長就任後はジェットコースタードラマや「平成教育委員会」等、後のフジテレビに影響を与えた番組や作品も残しているので、そのあたりは評価してあげないと気の毒である。


ドラマ編集

東京ラブストーリー

101回目のプロポーズ

ジェットコースタードラマ

愛と言う名のもとに

パ★テ★オ(最後に手掛けたドラマスペシャルおよび映画、制作中に失脚)


バラエティー編集

平成教育委員会 (宏明最大の功績)

ダウンタウンのごっつええ感じ


特撮編集

魔法少女ちゅうかないぱねま!(初の製作総指揮作品)

美少女仮面ポワトリン(放送後期に会長に就任)



アニメ編集

特になし



関連タグ編集

フジテレビ 鹿内春雄 日枝久 独裁者


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