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概要

1980年代の第一次フジテレビ全盛期を、日枝久と共に牽引した人物であったが、志半ばにしてこの世を去ってしまった、悲劇のテレビマンでもあった。


フジテレビに関わる以前

1945年5月15日生まれ。北海道夕張郡由仁町出身。

鹿内信隆と鹿内英子の長男。姉に奈月ひろ子(本名:鹿内寛子、別芸名に若柳菊菊ひろ子)、義弟(同い年)に鹿内宏明(宏明の妻が鹿内厚子)。

三度の結婚歴があり、最初の妻とは一女儲けるも嫁姑関係の悪化から離婚、子供の親権を巡るトラブルから春雄による傷害事件が起こる。二度目の妻は平尾昌晃元夫人だが春雄の子を出産後に病死。三度目の妻はアナウンサーだった頼近美津子であり、これが最期の配偶者となった。

初名は鹿内信英。病弱だったために祈祷師に縋った母によって春雄に改名している。

ボストン大学中退で若い頃は奔放であったという。


1970年にニッポン放送に入社。その後ポニー→植村甲午郎(経団連創設者のひとりであり、フジテレビの設立にも一枚かんだ人物)の秘書を経て、1977年6月に重役としてニッポン放送に復帰、1980年に副社長としてフジテレビに移籍した。


フジテレビの若きリーダーとして

1981年に日枝久と共に組織改革を実行し、「クイズグランプリ」と「スター千一夜」等の名番組を輩出した平日夜7時台後半の帯番組枠を81年秋季に廃枠。日替わり編成にした事で自由な編成を組める様にした。1985年にはフジテレビ・ニッポン放送、さらには産経新聞の会長に就任している。

在任中に「Dr.スランプアラレちゃん」、「うる星やつら」、「タッチ」、「ドラゴンボール」、「北の国から」、「オレゴンから愛」、「スケバン刑事、「欽ドン!良い子悪い子普通の子」、「オレたちひょうきん族」、「笑っていいとも!」、「スーパータイム」等、従来のテレビ番組の概念に囚われない斬新な番組を輩出し、フジテレビを視聴率トップに立たせ、13年に渡る黄金時代を築いた。部下の日枝を「立場を超えた親友」と評していた。

また、「南極物語」等、映画とのタイアップのメディアミックス企画にも積極的で、その技法は後々の作品にも影響を与えた。

そして、1987年夏に開催したイベント「夢工場」は、万国博覧会や地方博を思わせる、一テレビ局の範疇を超えた規模のイベントとなり、そのタイアップ企画「27時間テレビ」はフジテレビの新たな定番となった。そして、結果論になるが、後述の事を思えばこれがこの人の頂点だったのかも知れない。


負の側面

ただ、光あるところどうしても闇はつきもの。その光が強烈であればあるほど闇もまた深いものがある。それは春雄時代のフジもまた例外では無かった。

  • ローカルセールス枠だった月曜夜7時前半と金曜夜7時前半枠、全国ネット枠の平日朝7時台のニュースバラエティ番組の低迷は克服出来なかった。
    • いずれも裏番組があまりにも強力すぎたためと言える(月曜夜7時台:「クイズ100人に聞きました」、金曜夜7時台前半:「ドラえもん」、平日朝7時台:「NHKニュースワイド」、「朝のホットライン」、「ズームイン!!朝!」)
  • 土曜夕方6時台後半の定番として親しまれていたはずだったタイムボカンシリーズを半ば強引に土曜夜7時台後半に移した果てに消滅させてしまう。そして「炎のアルペンローゼ」に冷や飯を喰わせるような扱いをしたことでタツノコプロから三行半をたたきつけられた。
  • よそのテレビ局に遠慮しまくっていた地方局に「ニュース番組ひとつだけでいいから放送してくれない?ただ出来なかったら知らないけど」と最後通牒を突きつけた結果、手放すハメになってしまった。
    • ただし問題のテレビ局とは、手放すハメになったあとも関係は割と良好ではある。
  • タイアップした映画を自局のバラエティ番組で笑いものにした(「南極物語」は「新春かくし芸大会」で南極に取り残された男の物語としてネタにする、「ビルマの竪琴」は「オレたちひょうきん族」で「入間の竪琴」といじり倒す)のはまだしも、ある映画では社員を総動員した鑑賞券ばら撒き疑惑が浮上したことがあった。
    • さらに言えば春雄自身は角川春樹を本人の前で堂々と侮辱したことがあり、当然ながら角川の怒りを買った。

突然の最期

だが何もかもが順調に行っていたはずであった1988年4月16日、神奈川県内の病院でこの世を去った。

肝炎悪化による、わずか42歳での突然の死は周囲に衝撃を与え、先の日枝は訃報を聞き慟哭した逸話もある。また、余りに突然の死に「何者かに謀殺されたのでは?」と言う都市伝説が現在でもある。


没後

春雄元会長の没後、父の信隆創業者が代表に復帰するも1990年10月29日に逝去。次女の娘婿である鹿内宏明が会長に就任する。

しかし、宏明は日本興業銀行のエリート銀行員であっただけに金銭管理が厳しく、当時経営悪化した地方局への経営支援を「経営が傾いたのは自己責任である」として拒否(その後宏明解任後に他系列へのネットチェンジを実行)し、また自らが出社・退社の時は社員全員で出迎える様厳命していた。余りにもワンマンで強引な手法から周囲からの反感が凄まじく1992年7月21日に日枝等反宏明派が決起、宏明会長は解任され、日枝が代表となり、ここに鹿内一族のフジテレビ支配は終止符を打った。

そして春雄元会長の没後の1994年、視聴率トップを日本テレビに明け渡し、第一期黄金時代が終わった。


代表作

アニメ


ドラマ

バラエティー

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フジテレビ 鹿内宏明 日枝久 カリスマ 経営者

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