概要
日本100名城の1つ。
江戸時代初期に島津氏によって築かれた、上山城跡である城山とその麓に築かれた鹿児島城、別名鶴丸城と呼ばれる城で構成された平山城である。平地にあることから平城とする説、後に城山と名付けられる山の麓にあり、防衛拠点としての城は前述の上山城であったことから、山城とする説もある。
なお廃城令では存続であったが、それ以前の火災により廃城扱いであった模様である。
構造
この城自体は北に本丸、南に二の丸が位置していたが、単純な構造で防御には問題のある「屋形造」であり、天主や高櫓などの高い建物を持たなかった(後の人もこれを不思議がっていたが、おそらくは江戸幕府への恭順を示すためではないかと思われる)。そのため裏山である城山を籠城のための「後詰めの城」としていた。 しかし、城山に築かれた上山城跡(この城は南北朝時代に上山氏という豪族が建築した城であり、後に島津氏に譲られた)は城主であった島津常久(鹿児島藩家老、歳久の娘の子)が若くして天然痘で病死した後は事実上廃城となり、城山は立ち入り禁止の「聖域」として扱われた。
歴史
1601年(慶長6年)に島津忠恒(義弘の子であり、この人物は後に家久と名乗るがこちらの家久とは別人)により徳川家康への防衛手段として築城される。しかし、徳川家も父親が鬼島津として知られ、いまだ存命である人物を敵に回したくなかったのか明や琉球の交易を取り扱っており下手に敵に回すと海賊となりかねず厄介と見たか、討伐に手間取ると他の外様大名が反乱を起こすと見たらしく島津家は外様大名として存続を許されることとなり、忠恒以降の代に鶴丸城が実戦で用いられることはなかった。
ところが海に近いことが災いして、幕末の薩英戦争ではイギリス軍艦から砲撃を受け、櫓、門等が損壊し、(イギリス軍が天主と誤解した)周囲の寺社等が炎上している。
この城の状況
元々、薩摩は風害や水害が多い上、高温多湿な気候が災いしてシロアリが大量発生しやすかったといわれる。そのため、何度も建物は倒壊したといわれる。
その都度、移転されることなく立て直しがなされたが、明治元年に失火で大半の建物を失いその後廃城となり、1873年(明治6年)に本丸は焼失。明治維新の後であり、再建されることはなかった。
その後は、出丸跡に西郷隆盛が私学校を建てるものの、西南戦争によってそれも失われた。
その後、この城跡が利用されるのは、20世紀にはいった1901年(明治34年)になってらであった。第七高等学校造士館(現・鹿児島大学)の校地として使用される。第二次大戦後は新設された鹿児島県立大学医学部、後に国立鹿児島大学と合併して鹿大医学部の敷地になる。
現在は本丸跡に鹿児島県歴史資料センター「黎明館」、二の丸跡には鹿児島県立図書館、鹿児島市立美術館、鹿児島県立博物館などが建っている。
鹿児島城の往時をしのぶことができるのは本丸・二の丸の石垣と堀、大手門跡の石橋のみであった。大手門は1990年(平成2年)の大河ドラマ『翔ぶが如く』の撮影時にセットが作られたが、それも終了すると撤去された。しかし2020年になり、かねてから大手門の復元プロジェクトとして進められていた鶴丸城「御楼門」がついに復元された。