概要
支配層が財源として被支配層から徴収していた。毎年、貢がなければならないので、年貢という。主に米が年貢として納められていたが、畑しかない村では麦・蕎麦・大豆などで納められた。時代を経ると貨幣による銭納も普及する。現在では「年貢の納め時」という言葉に名残が見られる他、小作料を「年貢」と呼ぶ慣習が残っている。
年貢と呼ばれる形態が成立したのは11〜12世紀だが、徴税制度自体は7世紀末〜8世紀初頭に始まった租庸調制に端を発する。
江戸時代の年貢
年貢の税率は領地によって大きく異なる。平均的には五公五民のところが多い(収穫高の半分を年貢として持っていかれるという意味)。幕領(幕府の直轄地)では善政で諸藩の模範になるようにと四公六民程度だった。
江戸時代の諸藩は財政難に苦しんだが、過酷な搾取を強いれば農民が一揆を起こして抵抗したり、よその土地に逃げ出したりするなどの事件が起こり、幕府からのお咎めを食らいかねないため、支配する側も好き放題に年貢を上げることはできなかった。新田を開いて新しい耕地を広げるのにも限界があったので、領内でだけ通用する藩札という紙幣を発行したり、小物成という雑税を取り立てたりして収入を補ったケースが多い。
江戸時代を通じて年貢が最も高かったのが薩摩藩、水戸藩、高崎藩の3藩で、領民は八公二民というとんでもなく高い税率に喘いでいた。また、名君と名高い上杉鷹山の改革で知られる米沢藩も、鷹山執政中も含めて七公三民という重税を緩めることはなかった。
明治維新後の1873年に地租に置き換えられ廃止される(地租改正)。