概要
世界首都ゲルマニア計画
1930年代当時、ベルリンは急激な人口増加によりパリを凌ぐ大都市だったのにもかかわらず、建物は地方的でどうしても見劣りしていたベルリンを国家予算の44%となる55億マルク(約1兆6500億円)を投資し、ベルリンを更地にてしてパリやロンドンを凌ぐ文字通り“世界首都”を作るという計画が作られた。これが世界首都ゲルマニア計画である。
世界首都ゲルマニアの規模
世界首都ゲルマニアは何もかもが巨大だった。全長5kmのメインストリートや高さが117mの花崗岩で作られたヒトラーの凱旋門。ここには第一次世界大戦と第二次世界大戦の犠牲者の名前をひとり残らず刻む予定だったという。この巨大な建物の中でも一際目立っているのはやはりフォルクス・ハレだろう。この建物はサン・ピエトロ大聖堂のような建物で国民議会場とも言われる。高さは200mとも300mとも言われ、直径250mのドームの中には柱のない3万8000平方mの空間が広がっていた。さらに近くには敷地面積が200万平方mの総統官邸があり一度に1000人が食事できる食堂や公式会見のための大サロンが8つ、400席の劇場が作られる予定だった。何もかもがヒトラーの趣味に合うものだったのだ。
計画の破綻
計画は1939年から実行され、戦時中でもゆっくりとではあるが計画が遂行されていた。しかしそれも戦局の悪化とともに中断、放置された建物が増え1945年頃になると工事もほぼ行われなくなった。そして1945年3月にヒトラーは計画の中止を決め、ベルリンを更地にする焦土作戦を指示したが実行されなかった。こうしてドイツの敗戦とともに計画は完全破綻したのだった。
計画の問題点
まず、問題点として挙げられるのは予算の問題だろう。国家予算の44%という多大な負担に反対するナチス幹部も多く、それに沼地の多いベルリンはこういった巨大な都市を作ることにはあまり向いていなかった。アルベルト・シュペーアなどのヒトラーお気に入りの建築家は反対し、その他のナチス幹部も反対していたが、それでもヒトラーは反対を押し切ったのである。さらにこの時代の建築技術ではゲルマニアの完成予定年だった1950年には完成不可能で最低でも1970年代になってやっと完成するかしないかというところだった。