概要
世界首都ゲルマニア計画
1930年代当時、ベルリンは急激な人口増加によりパリを凌ぐ大都市だったのにもかかわらず、建物は地方的でどうしても見劣りしていた。
ベルリンを1939年~1950年の11年間、各年度の国家予算の4%を用いて総額55億マルク(約1兆6500億円)を投資し、ベルリンを更地にてしてパリやロンドンを凌ぐ文字通り“世界首都”を作るという計画が作られた。これが世界首都ゲルマニア計画である。
世界首都ゲルマニアの規模
世界首都ゲルマニアは何もかもが巨大だった。
全長5kmのメインストリートや高さが117mの花崗岩で作られたヒトラーの凱旋門。ここには第一次世界大戦と第二次世界大戦の犠牲者の名前をひとり残らず刻む予定だったという。
この巨大な建物群の中でも一際目立っているのはやはりフォルクス・ハレだろう。この建物はサン・ピエトロ大聖堂のような建物で国民議会場とも言われる。高さは200mとも300mとも言われ、直径250mのドームの中には柱のない3万8000平方mの空間が広がっていた。
ドイツ人のみならず周辺諸国のドイツ系民族代表の議員をも含む、1200人の議員を収容できる議事堂であったという。
さらに近くには敷地面積が200万平方mの総統官邸があり一度に1000人が食事できる食堂や公式会見のための大サロンが8つ、400席の劇場が作られる予定だった。何もかもがヒトラーの趣味に合うものだったのだ。
南北に鉄道ターミナルを設け、それぞれホームが4階も重なった高架構造とする予定だった。
ヒトラーは1920年代半ばにはこの巨大凱旋門などのスケッチを描いており、彼の宿願だった事がうかがい知れる。
戦中に実際に建造された防空砲台にしてシェルターであった高射砲塔も、勝利の暁には大理石で装飾される予定だったという。
計画の破綻
計画は1939年から実行され、戦時中でもゆっくりとではあるが計画が遂行されていた。しかしそれも戦局の悪化とともに中断、放置された建物が増え1945年頃になると工事もほぼ行われなくなった。そして1945年3月にヒトラーは計画の中止を決め、ベルリンを更地にする焦土作戦を指示したが実行されなかった。こうしてドイツの敗戦とともに計画は完全破綻したのだった。
計画の問題点
まず、問題点として挙げられるのは予算の問題だろう。11年間にわたり国家予算の4%を費やすという多大な負担に反対するナチス幹部も多く、それに沼地の多いベルリンはこういった巨大な都市を作ることにはあまり向いていなかった。
アルベルト・シュペーアなどのヒトラーお気に入りの建築家は反対し、その他のナチス幹部も反対していたが、それでもヒトラーは反対を押し切ったのである。さらにこの時代の建築技術ではゲルマニアの完成予定年だった1950年には完成不可能で最低でも1970年代になってやっと完成するかしないかというところだった。
他にもそれぞれ、ミュンヘンは「党運動都市」、ハンブルクは「ドイツ海運首都」、ニュルンベルクは「党大会都市」、オーストリアのリンツは「総統都市」として改造するプロジェクトが同時に進められており、その予算や資材の問題もあった。
こんな妄想的な大プロジェクトを実行するなら、航空戦力の保有など再軍備自体はどこかの時点で行うとしても大軍拡はせず、早期にこのプロジェクトを発動して軍ではなくこちらで雇用を創出し、勢力圏拡大より都市計画に人生と全精力を傾けていれば、ヒトラーにとっても当時のドイツ人にとっても幸せだったのかもしれない。
夢破れたあとに…
だが、ゲルマニア計画で建設された、あるいは組み込まれた建造物はいくつか現存している。
ベルリン・オリンピアシュタディオンや、建設当時は航空省ビルだった連邦財務省庁舎、同じく国民啓蒙・宣伝省ビルだった連邦労働社会省庁舎、かつてのテンペルホーフ空港(現在はテンペルホーフ空港公園になっている)のメインターミナルなどがそれで、ベルリンの戦いを生き延びた建物群は、実用に耐える建物であったため、壮大な夢の欠片となってひっそりと生きながらえている。