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概要編集

本名は「ハンス・ヨアヒム・ヴァルター・ルドルフ・ジークフリート・マルセイユ」と異様に長い。

第二次世界大戦時のアフリカ戦線で活躍し、アフリカの星と呼ばれたドイツ空軍パイロット。

総撃墜数は158機とドイツ空軍全体では多くない方だが、西側連合軍機の撃墜数ではドイツ空軍第一位を誇る。

1919年12月13日にドイツの首都ベルリンに生まれた。

1938年にドイツ空軍に士官候補生として入隊。しかし規律違反が多くて教官たちに「生意気で反抗的」と評価されたために昇進が遅れ、1939年9月の第二次世界大戦が勃発した際は士官候補生のままで、1940年8月に第2教導航空団第1中隊に配属される。

24日にバトル・オブ・ブリテンで初陣をはたし初撃墜を遂げ、バトル・オブ・ブリテンの戦闘期間中に撃墜数7機を記録するが、被撃墜数6回も記録する。さらに、僚機と中隊の事は省みず単機で交戦したり、謝罪しない傲慢な性格や日頃の態度の悪さから昇進ができず、遂には見捨てた形の上官が撃墜されて戦死した事からマルセイユの技量を評価していた中隊長ヘルベルト・イーレフェルト中尉からも叱責を受け最終的には解任される事となり、10月に第52戦闘航空団第4中隊に異動となる。

だが、ここでも仲間を「間抜けな豚」と言って謹慎処分を喰らうなど問題児であり、才能はあるが女付き合いが激しくて職務に支障がでたり、時折ある無責任な職務遂行から頼りにならないと中隊長のヨハネス・シュタインホフ中尉に判断され、12月に第27戦闘航空団に異動させられた。

1941年4月、航空団はユーゴスラヴィア侵攻に短期間参加した後にアフリカ戦線に移動する。

4~8月の期間はマルセイユは北アフリカ戦線初の撃墜を記録する幸先の良いスタートを切るが、3機撃墜したものの自身も自由フランス軍のジェームズ・デニス中尉のホーカー・ハリケーンに2回撃墜され、他にも4機の乗機を墜落させるか損傷させ、不時着を2回も経験する有様であった。

だが、上官であるエドゥアルト・ノイマン中尉はこれまでの上役とは違ってマルセイユを持て余すことがなく、助言は与えるも、基本的には自由にやらせる方針をとった。

それがマルセイユの空戦技術の向上を開眼させる事となり、急速に撃墜スコアを伸ばした。

9月24日にハリケーンを4機撃墜したのを皮切りに1日で複数の戦果を挙げるようになり、最終的には彼の生涯最後の月となる1942年9月の1日の戦闘では1日で17機を撃墜し、そのうち8機は10分間で撃墜したものであり、その月中には1ケ月で計54機を撃墜するなど驚異的な記録を更新する。

1942年6月17日には100機の撃墜を達成しており、9月26日に撃墜したスピットファイアが最後の撃墜である158機目の戦果となった。

それを讃えて、騎士十字章、柏葉騎士十字章などの勲章が授与され、1942年9月16日にはドイツ空軍最年少の大尉に昇進していた。


そんなマルセイユは1942年9月26日からアルベルト・ケッセルリンク元帥からの部隊のメッサーシュミットBf109F-4/tropを新型の「メッサーシュミットBf109G-2/trop」に更新するようにとの命令で、エンジン故障率が高い事に不満を感じて今までは乗ろうともしなかったその機体に搭乗していたが、30日の出撃で、帰投する際にそのエンジンが故障し煙が発生。視界が失われるなかそれでも捕虜となる事を怖れたか脱出せずに友軍戦域まで僚機の誘導で操縦を続け、友軍戦域に達するや脱出するも垂直尾翼に激突。その折に即死したか人事不省に陥り、そのまま落下傘を開くことなく地面へと叩き付けられて死亡した。享年22歳。

彼の墜落地点には、戦友たちが造った「ハンス・ヨアヒム・マルセイユ大尉は無敗のままここで亡くなった」との碑文が刻まれた小さなピラミッド型の墓が建てられ、それは1986年に仲間に再発見され、1989年には新しく大きなピラミッド型の墓が建てられ、現在も残っている。

遺体は後にトブルクのドイツ軍墓地に改葬されたとみられる。

柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章が授与される予定であったが、ヒトラーが直接授与するという規定があったために生前に受け取る事はできなかった。


愛機メッサーシュミットBf109F-4/Tropは部隊のカラーである黄色が塗られ、機体番号14だった事から「黄色の14」と呼ばれた。


『天才』の戦法編集

マルセイユの得意技は天才的な偏差射撃であった。

常に動いている戦闘機を機銃で撃墜するには背後を取るのが定石で、それ以外の方向から撃つなら敵機の未来位置を予測して照準を合わせなくてはならない。

マルセイユはスピードを生かした一撃離脱が主体だったドイツ空軍のエースには珍しく前線に送られた当初から仲間が冷や冷やする程の曲技飛行を行い、それに磨きをかけ、日本軍機のような低速での旋回戦を好み、しかも回避しようとする敵機の未来位置を見越して射撃した。

その偏差射撃は「敵機が自分から弾へ当たりに行くかのようだった」と評されるほど正確で、しかもわずか数秒の射撃で敵機を撃墜し、半数以上の弾薬を残して帰投する事が多い程だったという。

こうしてマルセイユは相手が多数で編隊を組んでいようが単機で荒々しい曲技飛行で突っ込んで編隊を掻き乱し、狼狽して編隊から離れた機体に接近して偏差射撃で仕留め、再び旋回しては編隊に襲い掛かるのを繰り返し戦果を挙げた。

この激しい曲技飛行ぶりにマルセイユの列機を務めたライナー・ペットゲンは調子を合わせるのに苦労したと述懐している。

しかし急旋回を多用してのドッグファイトはメッサーシュミットBf109に向いているとは言えず、当人の精神・身体両面への負担も大きかった。

堅実な一撃離脱に徹し、常に落としやすい敵機から攻撃したエーリヒ・ハルトマンとは対照的と言えるだろう。


余談編集

●父親はドイツ陸軍の将校で、戦後は警察官となっていた。だが幼少の折に両親は離婚し、母の再婚相手の警察官ロイターの姓を名乗るも、成人後は実父の姓を名乗った。

だが実父とも継父とも良好な関係を長く続ける事は出来ず、ある期間からは文通は時折するも実父と会う事は無かった。(空軍に入ったマルセイユを訪れ、飲み屋で夜の女を彼に当てがおうとして激怒を招いたためという説あり)

因みに実父は陸軍に復帰し、少将にまで昇進し、1944年1月にパルチザンとの戦闘で戦死している。(スターリングラードの戦闘で戦死したとの説あり。これは継父かも知れない)

彼には2歳年上で、任地からでも多数の手紙を送るほどに仲の良い姉インゲボルグがいたが1941年12月にウィーンで交通事故死を遂げた。嫉妬深い恋人に殺されたともいう。(同乗していた将校の飲酒運転だったが彼はインゲボルグが運転していたと罪を擦り付け刑を逃れたと言われる)

マルセイユは両親の離婚と姉の死が人生で最も影響を受けた出来事だったと述懐している。


●アフリカ戦線での活躍や自身の容姿端麗な顔立ちから本国からたくさんのファンレターが彼に届けられていた。

「女の子とのデートに忙しく、パイロットに必要な休息をしっかり取らなかった為に出撃出来ない事もあった」という上官(後にNATOの軍事委員会委員長を勤めたヨハネス・シュタインホフ)の証言もある。


●第27戦闘航空団司令も務めたエドゥアルト・ノイマンは彼を「髪は長すぎ、多くの懲戒処分のリストを持ち、激しやすく、気まぐれで、手に負えない人物であり、規律の問題児か優れた戦闘機パイロットとしか考えられなかった」という内容を述べると共に、アフリカ戦線では性格も変わり、「彼に憧れる部下達の気持ちに感謝して戦闘では部下を守り、無事に皆を連れて帰ろうと努めた」「ベルリンの新鮮な空気とフランスのシャンパンの香りが交じり合った男で、紳士だった」という内容も述べている。


●戦闘機隊総監だったアドルフ・ガーランドは北アフリカ視察の折にマルセイユを訪ねたが、その折の彼の挨拶が礼儀正しく、誠意があり、暫く話してその人間的な魅力と生来の指揮官としての素質を感じ、夜遅くまで愉快に話し合ったという。

その折に便意を催した為に処理法を聞くとマルセイユは小さなスコップを出し「天幕から出て真っ直ぐ60歩、次に右90度の方向に20歩進んだ場所でこのスコップをお使い下さい」と言われその通りに処理した。

翌朝、また必要を感じて外に出ると幕舎の前に矢印の標識が立っており、面喰いながらもその通りに進むと「1942年9月22日、戦闘機隊総監閣下、この地にて自然の摂理に対処す」との標識が立っていたという。


●彼の活躍はプロパガンダの格好の材料となりナチスは党を挙げて彼を持ち上げたが、本人には政治的関心は皆無で、柏葉騎士十字章授与でした折に表彰式でのナチスへの入党の誘いに、それだけの価値があれば検討すると述べたうえで「そこには魅力的な女性が大勢いなければならない」」と発言し、ヒトラーを困惑させた。

またメッサーシュミット社社長のヴィリー・メッサーシュミット博士の自宅にアドルフ・ヒトラー総統を含むナチス高官などと招かれた折にも、クラッシックをピアノで演奏すると共に、ナチスが退廃的芸術と評していた彼が大好きなジャズも演奏し、高官が青くなるなかヒトラーを退室させた。他にも彼はルンバ、スゥイングとナチス公認の退廃的芸術を好んでいた。

アフリカに帰るとノイマンにはヒトラーを「ちょっと変わった人だと思う」と感想を述べていたという。


●トブルクの陥落で捕虜となり運転手として駆り出されていた南アフリカ軍の黒人マシュー・レトゥク伍長と仲良くなり、彼がヨーロッパの捕虜収容所に送られる前に助手として引き取った。マルセイユは彼をマティアスと呼び、人種差別の強いナチス体制で彼がどのように扱われるかを心配し、自分にもしもの事があったら部隊に彼を残してくれるように上司のノイマンに確約させ、ノイマンは約束を果たし終戦まで彼を第27戦闘航空団に置いた。

レトゥクは1989年のマルセイユの新しい墓の落成式にもマルセイユの仲間やエジプト高官らと共に出席し、亡くなるまで航空団の同窓会に参加していたという。


●アフリカでのマルセイユの幕舎は防弾用のサンドバッグを組み合わせてソファとし、カンバスを継ぎ合わせたカバーをかけ、弾薬・部品の木箱や木枠をテーブルや椅子に変えていた。そして粗い造りのバーも備え、お酒は質量共によく揃っていたという。

彼の幕舎にはドイツ・イタリアの高級将校などがよく訪れ、マルセイユに会ったと自慢したが、差別主義に凝り固まったドイツ将校はバーテンダーとして働くレトゥクの存在を我慢しなければならなかった。


●多くの女性との浮名を流したマルセイユだが、1942年3月、年上の音楽教師・歌手のハンネ=リース・キュッパーと知り合い、婚約。その年のクリスマスには結婚する予定であった。亡きインゲボルグの面影を感じたからとの説もある。

100機撃墜を達成し、柏葉騎士十字章を叙勲しての二ヶ月の休暇の後に彼女を連れてドイツから北アフリカに戻る際に滞在したイタリアのローマでマルセイユは暫く行方不明になった。イタリア人女性と駆け落ちをしたが、説得されて部隊に戻ったという風聞もあったという。


●最後の1ヶ月ではマルセイユの友人であり第27戦闘航空団のトップエースでもあったギュンター・シュタインハウゼン少尉、ハンス=アーノルド・シュタールシュミット中尉の両名が戦死し、連日の戦闘による疲労で瘦せこけたていたマルセイユに身体的負担だけでなく精神的負担も与え、塞ぎこみ、殆ど話さないようになっていたという。


●アッペンの空軍士官学校の兵舎に1975年10月24日に彼の名前が命名されていたが、今日の連邦国防軍にとってかっての国防軍兵士に因んで命名する事はもはや意味をなさないとして2021年11月24日にユルゲン・シューマンに改名された。

一方、フェルステンフェルトブリュック空軍基地エリアにも彼の名前が冠せられた通りがあり、こちらも2011年にマインツ市議会で変更するかの議論があったが、2016年にマルセイユはナチスに政治の道具として利用されたが、それを免れたものは限られているとして名前を維持する事で全会一致をみた。


関連タグ編集

ドイツ軍 ナチス

ハンナ・ユスティーナ・マルセイユ(「ストライクウィッチーズ」で彼がイメージモデルとなったキャラクター)

黄色の13(エースコンバット04の登場人物で、彼がモデルになっている)

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