ハンス・ヨアヒム・マルセイユ
はんすよあひむまるせいゆ
本名は「ハンス・ヨアヒム・ヴァルター・ルドルフ・ジークフリート・マルセイユ」と異様に長い。
第二次世界大戦時のアフリカ戦線で活躍し、アフリカの星と呼ばれたドイツ空軍パイロット。
総撃墜数は158機とドイツ空軍全体では多くない方だが、西側連合軍機の撃墜数ではドイツ空軍第一位を誇る。
1919年12月13日にドイツの首都ベルリンに生まれた。
1938年にドイツ空軍に入隊、第2戦闘機乗員学校の生徒となる。しかし規律違反が多くて教官たちに「生意気で反抗的」と評価されたために昇進が遅れ、第二次世界大戦が勃発した際は候補生のまま第2教導航空団第1中隊に配属される。
しかし、初陣のバトル・オブ・ブリテンで撃墜数7機を記録するが、被撃墜数6回も記録する。さらに、日頃の態度の悪さから昇進ができなかった。
1941年、第27戦闘航空団に転属となりアフリカ戦線に移動する。そこでの上官ははこれまでの上役とは違ってマルセイユを持て余すことがなく、自由にやらせることにした。
それがマルセイユの空戦技術の向上に開眼し、急速に撃墜スコアを伸ばした。一ケ月で54機、一日で17機、10分で8機撃墜するなど驚異的な記録を更新する。
しかし、1942年9月30日、マルセイユはケッセルリンク元帥の命令で新型機「メッサーシュミットBf109G-2/trop」に乗って出撃し帰投した際にエンジンが故障、脱出した時に垂直尾翼に激突、そのまま落下傘が開かずに地面へと叩き付けられて死亡した。享年22歳。
彼の墜落地点には、戦友たちが造ったピラミッド型の墓が建てられ、現在も残っている。
柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章が授与される予定であったが、ヒトラーが直接授与するという規定があったために生前に受け取る事はできなかった。
愛機メッサーシュミットBf109F-4/Tropは部隊のカラーである黄色が塗られ、機体番号14だった事から「黄色の14」と呼ばれた。
マルセイユの得意技は天才的な偏差射撃であった。
常に動いている戦闘機を機銃で撃墜するには背後を取るのが定石で、それ以外の方向から撃つなら敵機の未来位置を予測して照準を合わせなくてはならない。
マルセイユはスピードを生かした一撃離脱が主体だったドイツ空軍のエースには珍しく、日本軍機のような低速での旋回戦を好み、しかも回避しようとする敵機の未来位置を見越して射撃した。
その偏差射撃は「敵機が自分から弾へ当たりに行くかのようだった」と評されるほど正確で、しかもわずか数秒の射撃で敵機を撃墜したという。
マルセイユはこの戦法を用い、相手が圧倒的多数でも単独で突撃し戦果を挙げた。
しかし急旋回を多用してのドッグファイトはメッサーシュミットBf109に向いているとは言えず、当人の精神・身体両面への負担も大きかった。
堅実な一撃離脱に徹し、常に落としやすい敵機から攻撃したエーリヒ・ハルトマンとは対照的と言えるだろう。
アフリカ戦線での活躍や自身の容姿端麗な顔立ちから本国からたくさんのファンレターが彼に届けられていた。
「女の子とのデートに忙しく、パイロットに必要な休息をしっかり取らなかった」という上官(後にNATOの軍事委員会委員長を勤めたヨハネス・シュタインホフ)の証言もある。