経歴
1913年3月18日にヴェストファーレンのゲルゼンキルフェンに生を受ける。
陸軍士官学校を卒業し少尉となっていたが、1935年にパイロットへの転属を希望する。しかし乗り物酔いをする体質であることから航空輸送学校の最初の試験には不合格になるも努力し、次の試験に合格して卒業するまでには乗り物酔いを克服し、成績は首席であった。
1938年4月にはスペイン内戦に参加していたコンドル軍団の第88戦闘飛行団第3中隊長に就任。前任者であるアドルフ・ガーランドは当初はこの人事に不満であったが、任務を引き継いでドイツに帰国する折にはメルダースに絶大な信頼を寄せるまでになり、これを機に両者は親友となる。
この時期、メルダースは14機を撃墜しコンドル軍団のトップエースであった。
1939年9月からの第二次世界大戦には第53戦闘航空団第1飛行隊第1中隊長である大尉として参加し、10月には第53戦闘航空団第3飛行隊長となり、1940年6月20日、フランスにてポミエ=レイラグ少尉のドボワティンD520に撃墜され捕虜となるもフランス降伏後に解放され、第51戦闘航空団司令に就任し少佐に昇進した。
バトル・オブ・ブリテンなどで英仏海峡を挟みRAFと激闘を交え、7月28日の戦闘ではアドルフ・マラン大尉との交戦で一ヶ月の負傷を負っている。
10月には51機の撃墜を果たし中佐に昇進した。
1941年6月に始まったソ連侵攻「バルバロッサ作戦」に第51戦闘航空団は参加し、7月15日にメルダースは前人未踏であった100機撃墜である101機の撃墜を達成、大佐に昇進した。
メルダースの戦死を恐れたヘルマン・ゲーリング元帥は彼の出撃を禁止したが、その後も機会を見つけてはメルダースは出撃し撃墜数を伸ばしていた。
8月には彼は戦闘機隊総監に任命された。
11月17日に空軍技術局長エルンスト・ウーデットが自殺を遂げ、その国葬がベルリンにて行われる事となり、メルダースはクリミアで作戦中の部隊の現状を上層部に訴える良い機会と判断し、悪天候のなかコンドル軍団からの熟練コルベ中佐の操縦するハインケルHe111爆撃機に搭乗して葬儀に出席する為にベルリンに向かいチャプリンカ飛行場を発すも、天候に阻まれレンベルクに不時着する。それでも猶もメルダースはベルリンへの飛行を諦めずに強行させるもブレスラウ付近で機は墜落しメルダースは死亡した。22日の事であった。
人物
外見は極めて美男子であり、本人は女性的なところは一つも無いにも関らず、肌艶も女性に負けないほどで、男にしては美しすぎると評されたともいう。
厳格なローマ・カトリックの家庭の元で育てられ、しっかりとした道徳・倫理を持ち、教養もあり、理知的で判断力・指導力に優れ、鋭い眼差しと身に着けた威厳には部下・同僚だけでなく目上の者も彼の言葉に耳を傾けたという。
規律違反には厳しい態度を取るも、刺々しくない範囲で部隊の規律に厳正で、部下の過誤を理解し、部下一人一人に心を配る優しさも持ち合わせていたという。
エースとしても優れていたが戦闘機戦術にも優れ、スペイン内戦での経験を元に彼が体系化した高度差を置いた二機が一組(ロッテ)となり、一機は攻撃専門、一機はその後尾を守るロッテ戦法、更にロッテを二組組ませたシュヴァルム戦法はドイツ空軍が緒戦において連合軍空軍を圧倒する要因にもなった。
また格闘戦に優れる英空軍のスピットファイアに対してはメッサーシュミットBf109に徹底的な一撃離脱に終始して戦うように指示し、Bf109の損害を減少させたという。
ゲーリングのお気に入りであり、戦闘機総監の事務的な任務にも積極的に取り組んだメルダースなら、彼の死後に戦闘機総監に就任したものの根っからのファイターで事務職に合わず、その直情径行的な性格でゲーリングと激しく対立したガーランドと違い、もう少し上手く上層部を説得できたのではなかったかと言われる。
逸話
第53戦闘航空団第1飛行隊第1中隊長時代にはさして歳が離れていない部下から「父さん(ファティ)」と呼ばれたという。
第一次世界大戦でのドイツのエースであり編隊戦闘に寄与したオズヴァルト・ヴェルケを尊敬し、マンフレート・フォン・リヒトホーフェンを尊敬していた友人のガーランドと両者の比較での論争の末に「ガーランド。君はドイツ空軍のリヒトホーフェンになり給え。僕は現代のヴォルケになるぞ」と言ったという。
バトル・オブ・ブリテンの折、インフルエンザにかかったメルダースは、友人のクラウス中尉が海上に撃墜されたと聞き、救難飛行隊に出動要請をするも出動不可能と聞くや、高熱をおして列機をつれ海上を捜索したという。
バトル・オブ・ブリテンで第1飛行隊長のヨピーン大尉が列車を攻撃したの見たメルダースは帰還後に大尉を出頭させ、軍事目標以外には手を出すなと命令したという。
当時最高峰のエースであった故リヒトホーフェンの80機撃墜の記録を初めて破り、世界で初めて100機以上の撃墜の記録も達成した。101機撃墜の折にはドイツ空軍初の柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章を受勲した。
メッサーシュミットBf109がE型からF型に機種変更した折に、武装がE型の翼内の20㎜機銃2丁、機首の7.92㎜機銃2丁からモーターカノンの15㎜機関銃1丁、機首の7.92㎜機銃2丁にパワーダウンした事にガーランド達はこれから厳しさを増していく戦争を前にしての火力削減に反発したが、メルダースはこれからの戦争は個々が戦うものではなく編隊を組んでの総合的な強さが勝敗の鍵を握るとして武装が削減されても運動性が向上した事を支持したという。