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「我らの人民は声を上げた、“もう十分だ”と。この偉大な人民の行進は、真の独立を勝ち取るまで続く。あまりにも多くの血が流されたからだ。代表の皆さん、これは、アメリカ大陸における新たな姿勢だ。我らの人民が日々上げている、叫び声に凝縮されている。また全世界の民衆に支持を呼びかける叫びだ。特にソ連が率いる社会主義陣営の支持を。その叫びとは、こうだ。祖国か、死か!


Byチェ・ゲバラ


背景編集

キューバはもともとコロンブスによって発見され、その後400年近く太陽の沈まない帝国(だった国)であるスペインの植民地となった。しかし米西戦争アメリカがスペインに勝利し、同国の協力を得らえた結果、1902年に念願の独立を果たした。


しかし、キューバの実態は非常に無残だった。アメリカの圧力により、当時の政府が制定した憲法にはアメリカの内政干渉が認められ、実質的なアメリカの植民地となってしまった。これにより国内には米軍基地が置かれ、経済面ではアメリカ資本がキューバに進出し、当時の主要産業であった砂糖産業やタバコ産業を独占し、その他にも多くの多国籍企業がキューバに進出してきた。それによりアメリカに媚びる少数の者が富裕層になり、大多数のキューバ人が貧困に苦しむ状況となってしまった。


さらにキューバ自体が「アメリカの裏庭」といわれていたカリブ海において軍事的に重要な位置にあったこと、第二次世界大戦中にはキューバの米軍基地がドイツ潜水艦に対する基地として活用されたことなどから軍事的にもアメリカとは切っても切れない関係となっていた。


1952年に軍人上がりの政治家、フルヘンシオ・バティスタがクーデターを起こし政権を握る。するとバティスタは独裁を強め、私欲を満たすためにさらにアメリカ政府、アメリカ企業、ついでにバティスタの知り合いだったアメリカンマフィアのキューバでの利権を保護し、キューバの大多数の国民はさらに貧困にあえぐこととなった。


本当にこのままでいいのか…。もうキューバは永遠にアメリカの植民地なのか…。


だれもがそう絶望していた中、一人の男が立ち上がった。


この男こそが当時弁護士をしていた、若かりしフィデル・カストロである。


革命前夜編集

7月26日運動編集

1953年7月26日、フィデルは自身や弟、ラウル・カストロを始めとする123人の若者メインの反乱軍を組織してキューバ南東部の都市、モンガダ兵営を襲撃する(7月26日事件)。しかしこの時の襲撃は失敗してしまいカストロも逮捕されてしまう。なお、裁判にかけられた際フィデルは2時間に及ぶ演説をし、自分自身を弁護するというどこかのトンガリ頭の弁護士みたいなことをやってのけた。

この時に述べた「歴史が私に無罪を宣告するだろう。」という言葉は有名。


フィデルは最終的に死刑を宣告されたが、恩赦で解放された。


M26の結成、チェ・ゲバラの参加編集

その後、フィデルは同志たちと共にメキシコ亡命する。しかし彼らの反乱の意志は消えるどころかむしろ強くなり、同じ境遇のキューバ人を集て、反乱組織を結成。結成日の7月26日にちなんで「M26(7月26日運動)」と名付けられた。この時、フィデルは南米諸国を旅し、各地の革命にも参加していたアルゼンチン生まれの医者チェ・ゲバラと出会う。ゲバラはフィデルに共感し、一夜にしてM26への参加を決意。M26はスペイン内戦共和派の生き残りの軍人からゲリラ戦を始めとする本格的な軍事訓練を受け、様々な革命に必要な物資を現地調達していった。


革命戦争編集

キューバ上陸編集

1956年11月25日深夜、メキシコから一隻の船がキューバに向けて出発した。その船の名は「グランマ号」。M26がアメリカ海軍の飛行艇を買おうとしたが、予算不足のために買った中古ディーゼルエンジン搭載ヨットであった。この船の定員は8名(多くて12名)であるが、定員を超える82人のM26のメンバーが乗り込んで出航した。

当然船内の衛生環境は劣悪、さらにバレないようの中を出航したこともあって船内の士気は最悪。そんなこんなで12月2日、約2000㎞を一週間かけて渡航し、キューバに上陸した。しかし喜びも束の間、実はフィデルがあらかじめキューバに戻ることを公言するというマジキチプレイをかましていたため、上陸した瞬間政府軍に襲撃される。その結果大多数のメンバーが戦死、逮捕されてしまい、生き残ったのは20人もいなかった。


ゲリラ戦、勢力拡大編集

人数も食料も武器も極端に減ってしまった革命軍だが奇跡的にカストロ兄弟もゲバラも生き残り、なんとかキューバ南東部にあるマエストラ山脈(シエラ・マエストラ)に逃げ込むことに成功する。この後、革命軍はこの山脈を「キューバ解放区」とし、この地を舞台としたゲリラ戦を展開することとなる。この時、フィデルはこう叫んだという。

「17人も生き残った!!これでバティスタの野郎もおしまいだ!!」

この時、ゲバラは絶望や憤りのあまりフィデルが本当に発狂したのではないかと心配したという。しかし、フィデルは正常であり、しっかり勝算があった。


キューバ国内では自分たちの名が知れ渡らないと考えたフィデルは、まずアメリカにて有名になることを考える。ゲリラ戦初期段階の1957年にカストロはアメリカ人ジャーナリストからのインタビューを受ける。それは「シエラからの報告」としてニューヨーク・タイムズに連載された。するとアメリカ人は革命軍を「圧政者と戦う正義の革命家」と好感を持ち始める。世論も革命軍に同情的になってきたため、アメリカ政府はバティスタ政権への武器の禁輸を決定する。その後も政府軍の捕虜を革命軍に引き入れたりしながらゲリラ戦を2年間も続け、1958年に革命軍はとうとう攻勢を開始する。


反撃開始編集

革命軍は自分たちを「カラム」という2つの部隊に分かれ、二方向から西に位置する首都・ハバナに向けて進軍していった。ゲリラ戦を研究し尽くしたゲバラの作戦により革命軍は連戦連勝していく。夏の大攻勢では政府軍1万人に対し300人の兵力でシエラマエストラ山脈にてゲリラ戦を展開し、勝利を収めている。


革命の達成編集

12月28日、サンタ・クララの戦いが勃発。これはキューバ中部の中心都市、サンタ・クララをゲバラが指揮する革命軍400人が攻撃。対して政府軍は3000人、それに加え武装された装甲列車が配備されている状況であった。この誰もが見ても革命軍が負ける戦いは、兵力の少なさを悟られないための複数地点からの攻撃、革命軍に好感を持っている市民のバリケードを築く、革命軍と一緒に戦うなどの戦闘への協力、装甲列車を火炎瓶で熱した後に脱線させて破壊、「革命軍は捕虜を殺さない」という噂を聞いた多くの政府軍兵士の降伏により、たったの4日で決着がついたしまった。


ちなみに、この戦いで初めて革命軍は人数分以上の武器を確保できた。なにはともあれ、これがキューバ革命最後の決戦となった。


政府の敗北が決定的になった1958年の12月31日、バティスタは新年祝賀パーティーで突然辞任演説を始め、翌日1月1日飛行機でキューバから脱出しドミニカ共和国に亡命。数時間後には臨時政府が残党によりハバナで立ち上げられたが、革命軍は難なく撃破。1月8日にフィデルが首都・ハバナに入城したことにより、7月26日事件から1993日間に及ぶ長い戦いであったキューバ革命は完全に達成された。


革命の成功要因編集

革命の達成要因となったのが地元民の協力であった。フィデルは「キューバ国民の大多数は貧農層が占めている。彼らは支配層に日ごろから抑圧されているため、支配層を打倒しようとしている我々に絶対協力するはずだ。」と考えており、実際、情報伝達に協力する者、革命軍に参加する者、バリケードを築く者など多数の支持者が現れた。革命軍は政府軍の略奪など日常茶飯事だった農村で食料や物資を調達する際には必ず農民に代金を支払っており、戦闘終了後には自軍兵士だけでなく敵軍兵士にも医療行為を施していた。これらの話はキューバ全土に広がっていき政府軍から革命軍への寝返りが出てくるようになるまでになった。


また、フィデルは情報戦の重要性を理解しており戦闘の現状などを積極的に国内外のジャーナリストに伝え報道させた。これによって革命軍の強さが知れ渡り、ますます支持を集めたことも勝利の一因と考えられる。


事後編集

アメリカ大陸初の社会主義国へ編集

革命達成後、フィデルは新政府首相、ゲバラは新政府の国立銀行総裁に就任した。新政府は当初アメリカとの友好を望んでおり、そのことを伝えるためにフィデルが訪米したが、当時のアメリカ大統領ドワイト・アイゼンハワーが「ゴルフ行くんでwww」と会談をドタキャンした上、リチャード・ニクソンが「革命後の共産主義の影響拡大」、「反革命派の処刑」、「自由選挙の未実施」といったことをに対するのごとく嫌味ったらしく問い詰めてきたことにフィデルがキレたために帰国後直ちに富裕層の農地を強制的に取り上げ、貧農に与える農地改革を断行。

当然アメリカ企業の農地も没収した。これに対してアメリカが「はぁ!?なにいってんのおまえ!?もうお前んとこの砂糖もタバコも買わないし、ウチの石油も売らないもんねー!!」と言ってきたことに加え、反革命派の亡命キューバ人に軍事訓練を施し、里帰り(侵攻)させてきた(ピッグス湾事件)。これによりキューバとアメリカの対立が深刻化し、キューバはソ連に近づいていき、社会主義陣営に近づいていった。この出来事はアメリカのお膝元に社会主義国家ができたという前代未聞の出来事であり、後のキューバ危機に繋がる。


その他政策編集

新政府は社会主義国として食料の配給制の整備、教育・医療の無償化を実現している。これによりキューバの文盲率(字が読めない人の割合)はほぼ0%になり、高度な医療が受けることができる上に乳児死亡率を低下させるなどの成果が上げられた。


また、アメリカとの関係が悪化したためアメリカの最先端の文化が入ってくることが無くなり、キューバには1950~60年代の古き良き街並みが残っている。(最近アメリカとの関係が良好になってきたため失われる風景にはなりつつあるが。)


しかし旧政府の兵士や高官に対する不当な裁判の後の粛清、革命による多くのキューバ人のアメリカへの亡命など負の面があったことも忘れてはならない。


関連タグ編集

キューバ フィデル・カストロ チェ・ゲバラ カリブ海

共産主義 社会主義 グランマ号 革命 革命軍

キューバ危機 ゲリラ サンタ・クララの戦い

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