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概要

都市国家シンガポールの建国の父であり、今日の繁栄を築いた最大の功労者。

シンガポールでは「Papa Lee(リーお父ちゃん)」、「LKY(名前のイニシャルから)」と呼ばれることが多い。


出生

福建からマレー半島に移住してきた客家系移民の4世として生まれる。いわゆる超エリート華人で母語は英語とマレー語。中国語は苦手で政界入りした際に苦心して勉強した経歴を持つ。


戦争体験からシンガポール独立まで

太平洋戦争における日本のシンガポール統治について、リーは「白人支配を終わらせたという点で画期的であった」ものの、その統治は「イギリスの方がはるかにましであった」と断言している。


人口の7割が華人のシンガポールでは、住民は敵性国人として過酷な扱いを受け、少なくとも6000人、多くて5万人が殺されたとされる。

マレー人やインド人は比較的ましであったものの、それでも強制労働に従わないなど反抗的な人物は厳しく処罰、拷問された。


リーも日常的に暴行を受けたり、家を不潔な日本兵に我が物顔に使われたり、あと一歩で殺害されかかるなど過酷な日々を過ごした。この体験はリーに強烈な影響とトラウマを残し、回顧録において日本軍の残虐行為を書き連ねる一方、犯罪が激減したことから「治安維持には厳罰が必要だ」という、後のシンガポールの厳罰主義の下となる考えが出来上がったとしている。


日本の敗戦後、イギリスからの高度な自治権を獲得したシンガポールの初代首相となったリーは、1963年にマレーシアとのマラヤ連邦樹立を達成した。


しかし、民族主義の下華人との経済格差を埋める目的でマレー人優遇政策を取ろうとする中央に対し、華人が多数を占めるシンガポールを治めるリーは「マレーシア人のためのマレーシア」を主張して対立した。

マレーシアの国会においてリーは民族と宗教の隔てのない国家の樹立をマレー語で熱弁し、その真摯な姿勢はマレー系議員からも賛同者を得ることに成功する。


ところが、これが初代首相であり、盟友であったラーマンの警戒心を煽った。

当時の人口バランスでは、マレー人は過半数にわずかに届かない程度で、3割強の華人と1割のインド人、そして一部のマレー人が同調すれば経済だけではなく、政治も華人に支配されるのではという恐れがあったからだった。


その後に行われた総選挙では、リーが率いる人民行動党は1議席しか獲得できなかったにもかかわらず、民族間の対立が殺傷沙汰にまで発展したことを受けてラーマンは一方的にシンガポールの追放を決定。

盟友の裏切り行為と、水と食糧をすべて自前で賄えない島国を運営していかなければならない現実を突きつけられたリーは絶望に耐えきれず、独立を発表する会見において号泣した。


「私は両国の統一と独立を信じておりました。両国にとってそれが自然なことだからです。しかし、あれほど信じていたものが崩れ去ったのです」


独立後

事実上の棄民政策によってできたシンガポールを、リーは徹底した功利主義と合理主義で治めることにした。


まず、円滑な統治を行うために政府への敵対行為を許さなかった。選挙制度、政治制度を次々と人民行動党に有利に作り変えて政権交代を非常に難しいものにし、政府批判などを禁じた。このため、シンガポールの政界で立身出世を夢見る優秀な人材は人民行動党に集中することとなった。

他方で決して官僚や政治家を甘やかすということはせず、汚職を摘発するための捜査機関には非常に大きな権限を与えている。

今日シンガポールは「明るい北朝鮮」と揶揄されることがあるが、実際は、特に近年は真面目な選挙が行われており、人民行動党がこれまでの失政を謝罪したりするなど民意の汲み取りには極めて敏感で、2015年には70%の得票率を得ていることから人民行動党の統治を国民が受け入れていることは明らかである。


民族政策においては、民族問題のためにマレーシアから追放された歴史的経緯から国内の諸民族を平等に扱い、同時に独自性を保たせたうえで「シンガポール人」というアイデンティティを創成した。

国民の殆どは政府が用意した公営住宅に住んでいるが、民族比は国家の民族比に可能な限り近く振り分けられている。これは民族間の融和だけではなく、特定の民族が固まって徒党を組み、強力な民族主義政党を作り出さないための工夫でもある。

シンガポール政府は民族間の対立に対して極めて敏感であり、それを煽り立てるような言論や発言を厳しく禁じている。


また、シンガポール経済はイギリス軍関係の雇用でなんとか持っていたという極めて脆弱な経済体制の上に成り立っていた。このため、企業に非常に都合の良い法律と税制を敷くことで外資系企業の誘致をして貿易や金融業といった国土の広さや地理的条件に左右されにくい産業を振興した。

この振興政策は大当たりし、1980年代にシンガポールは「アジア四小龍」の一角として諸国の研究対象となるほどの成功を得る。


独立当時、水と食糧の確保に苦労し、自前の国防組織すら存在しなかった小国は世界中からモノ、カネ、ヒトが集まる有数の経済都市と変貌を遂げ、反対に追放したはずのマレーシアから労働者が国境を越えて通勤するという現象が起きるほどにまでなった。


2011年に政界を引退した後も、息子をはじめとする一族の多くが政府高官あるいは政府系企業の幹部に就いたことから、「リー王朝」と揶揄されるほどの影響力を国内に持ち続けた。


2015年、肺炎により死去。


評価

簡単に言うと、国家としてとても存続できないような国家を存続させたどころか、世界有数の経済大国にしてしまったリアルチート

なろう系でよくある追放ものを国家単位でリアルにやってのけた傑物。


その独裁的、権威主義的手法と思想、事実上一族や人民行動党が国家の利権を独占していることにも批判が多い一方、弱小国家が成長するためのモデルの一つとして(特に新自由主義者から)熱心な支持者も存在しており、語る人間によってその評価はまちまちである。


人物

西洋的な家庭に育ったため、普段の食事は洋食。


上述の通り太平洋戦争時における日本軍の行為に対しては批判的。「遺憾の意」に留めて(シンガポール側からの認識では)明確な謝罪を行わなかった日本の態度には不快感を示し続け、「平和で非軍事的だが、真摯に反省をしようとしない国だ」とはっきり非難したこともある。

他方で日本の政財界とは良好な関係を築き上げており、晩年に至るまで日本に対して鋭い批判を込めた叱咤と助言をしていた。



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シンガポール 独裁者

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