私は射撃が好きだし、狩猟を愛している。
しかし、殺しを楽しんだ事はどんな相手だろうと一度も無い。それは私の仕事だった。
もし私が敵を仕留めなければ、彼らは私の後ろにいる──我々が海兵隊の格好をさせていた──沢山の子供たちを殺していただろう。私に選択の余地は無かった。
生没年 1942年~1999年
最終階級 1等軍曹
愛用の迷彩用帽子に白い羽を留めていたことから白い羽(ホワイトフェザー)の異名で知られる。
生涯
1959年に子供のころからの夢であった海兵隊に入隊。入隊後から狙撃手としての適性が認められ、狙撃訓練課題のコースで250ポイント中248ポイントという、とんでもない記録を叩き出したり(現在においても彼の記録は破られていない)、1965年にはアメリカで最も権威ある射撃競技大会の「ウィンブルトン・カップ」で弱冠23歳で優勝するなどその才能をいかんなく発揮した。
同年ベトナムへ送られたハスコックは、当初MPとして勤務していたが後に狙撃チームの一員として前線へと送られた。
主な逸話として、北ベトナム軍の某将校を狙撃するためにジャングルを3日かけて1km匍匐前進した話が知られる。またM2重機関銃を使っての2.3km離れた場所からの長距離狙撃に成功する(2003年にカナダ軍の兵士が2.4km先の狙撃を成功させるまで破られなかった)など、類まれな狙撃の腕を示した。またその技量は北ベトナム軍の恐怖と憎悪の対象となり、3万USドルの賞金を掛けられるほどになった。
1969年、作戦行動中に乗車していた水陸両用車が地雷に引っかかったことで重傷を負い、米本土で教官職に就いた。1975年に多発性硬化症を発症し、1979年に退役した。
公式記録ではベトナムで93人を狙撃したとされるが、非公式なものを合わせると300人を超すとされる。
退役後は海兵隊の年金満額支給の対象となる勤続20年に55日足りず半額のみ支給されること、傷痍軍人年金は満額支給されることに落ち込んでいたが、その後は闘病生活を送りながら狙撃に関するアドバイスを軍・警察組織に行ったり、趣味のシャークフィッシングを楽しむ余生を送った。1996年にはベトナム戦争の功績と狙撃に関する育成・運用に関する功績を讃えて、シルバースターを授与した。
一撃で必ず敵をしとめる彼の正確無比な射撃能力から、現在もアメリカ海兵隊の狙撃手の代名詞として『One shot, One kill(一撃必殺)』が残っている。