毛利良勝
もうりよしかつ
尾張にて勢力を有していた織田氏(織田弾正忠家)の家臣の一人。出身も尾張とする見解があるが確定を見ておらず、現在でもその出自は定かではない。
他方でこちらも詳細は定かではないものの、織田家臣の中にはもう一人毛利十郎(※)なる人物もおり、『信長公記』では「良勝の桶狭間での武功は十郎の冥加(※)のおかげと噂されていた」との記述があることから、恐らくはその毛利十郎の一族に連なる人物である、という可能性も指摘されている。
はじめは織田信長の馬廻衆の一人、もしくは小姓として仕えていたとされ、この当時は毛利新介と名乗っていた。
その後、永禄3年(1560年)に起こった桶狭間の戦いでは、同じく馬廻衆の一人であった服部一忠(小平太)と共に、敵軍の総大将である今川義元に挑み、これを討ち取る(※2)という大手柄を上げる。これにより黒母衣衆に抜擢されるという大出世を遂げ、同時に諱を良勝に改めた。
もっとも、その後の良勝の働きは戦場よりも、むしろ文官としてのそれへと比重を移していくこととなる。永禄12年(1569年)の伊勢大河内城攻めで尺限廻番衆(※3)を務めたことはあるものの、基本的に信長やその嫡男の信忠存命時には、彼らの側近兼吏僚として活躍しており、多くの史料にその名を名前を遺している。
天正10年(1582年)の本能寺の変でも、信忠と共に彼の宿所であった二条御新造に立て籠もり、明智光秀の軍相手に抵抗するも、奮戦空しく討死した。またこの二条御新造での攻防戦においては、前出の服部一忠の弟・小藤太も彼らと運命を共にしている。
(※ 『信長公記』における十郎の冥加とは、家臣によって謀殺の憂き目に遭った斯波義統(尾張守護)の遺児を保護・養育したことを指すもので、この義統の遺児も後に毛利長秀(秀頼)と名乗り織田家臣となっている。また毛利十郎を名乗っていた人物には、天文年間に稲葉山城攻めで討ち死にした毛利敦元もいるが、こちらは時系列的に十郎の父に当たる人物であろうと見られている)
(※2 その際、義元に親指を食いちぎられたとの話も広く知られるが、これは『太閤記』などに見られる逸話である)
(※3 さくきわまわりばんしゅう。主君の側近として、主に本陣の守備や限定的な普請などに携わる)
英傑大戦
「俺たちの殿は、こんな所で
敗けるようなタマじゃねえ!」
ver1,50「廻天の五芒星」より、メイン画像の姿で参戦
。
蒼勢力所属、レアリティN、1.0コストの槍兵、武力3、知力2、特技「先陣」持ち。
全勢力を見ても1.0コストの槍兵では屈指の武闘派スペックで、試合時間の前半は特技「先陣」の効果で武力4、知力3というかなり破格の性能になる。
計略は消費士気4の「大手柄」。
効果時間の短い単体強化だが、武力+7と移動速度50%上昇し、敵を撃破するたびに4%もの敵城にダメージを与えるいうもの。
その瀕死の敵部隊を逃がしたくない時や終盤に攻城が出来ないけど城リードを取りたい時などいった様々な場面で重宝出来る優秀な計略を持っているのが、良勝最大の強み。
単色混色問わず入れておけば、戦力として機能し、いざというときの仕事も出来ることから、様々なデッキで使いやすい一枚である。