概要
平安時代の承平及び天慶年間に東国で平将門が西国で藤原純友が反乱を起こした事件の総称。
平将門の乱
平将門は桓武天皇の曽孫平高望の孫であり高望は臣籍降下後に上総介として東国へ赴いた。高望の子国香・良兼・良将は高望と共に東国に向かい後に現地に留まった。良将の子将門は上京し藤原忠平の家司として勤めていた。良将の死後に東国に戻るが良将の土地は国香と良兼が所有していた。後に将門は良兼と対立、さらに平真樹と源護の対立が発生した。真樹は将門に相談し護と戦い後に護の娘婿国香を襲撃し国香は敗死、後に良正を襲撃した。京から戻った国香の子貞盛も良兼に従い将門と争い、承平6年(936年)に護は将門を朝廷に訴え将門は京で尋問を受けるが翌年の承平7年(937年)に恩赦によって将門は坂東に戻った。
一族同士の争いは続き将門は忠平に良兼と貞盛を訴え良兼と貞盛は追捕を受け天慶2年(939年)に良兼は死去、同年に武蔵権守興世王と武蔵介源経基と対立していた郡司武蔵武芝から相談を受け両者の調停に動いた、興世王と武芝は和解するが経基は京へ戻り謀反を伝えている。さらに常陸国から追われていた藤原玄明を助け常陸国の国府を襲撃した。常陸介藤原維幾は降伏し国府の印を将門に渡した。これにより朝廷は私闘から反乱と判断された。
坂東の国府を占領した将門は菅原道真の霊によって「新皇」と称し坂東地方に国家を立てることを宣言した。朝廷は藤原忠文を征東大将軍に任命させ将門追討に動いた、同時に貞盛は下野国の藤原秀郷と共に将門追討に動き4000人の兵士を率いて将門を襲撃した。将門の兵士は大半が農民のため1000人の兵士しか出陣が出来なかった。貞盛と秀郷の兵は将門の兵を撃ち破り下総国付近で将門の本軍と戦った。将門は春一番を利用して連合軍を向かい撃つがしかし風向きが変わり寒の戻りとなり連合軍が優勢となり矢が当たり将門は討ち取られ将門の弟や玄明と興世王も討ち取られ反乱から2ヶ月で終息し追討にあたった貞盛は従五位下、秀郷は従四位下となる。
藤原純友の乱
8世紀頃から海上から物資を運搬が多くなったが9世紀に入った頃から瀬戸内海で海賊が多発していった。朝廷は国府に海賊を討伐を任じさせたことで鎮静化するが再び海賊が多発することになった。藤原純友は父の藤原良範が大宰少弐だったが早くに父を亡くし出世が見込めないまま一族の藤原元名が伊予守にに伴い伊予掾となり伊予国へ下向した。純友は海賊を鎮圧するが後に海賊の首領となった。純友が海賊になった理由は朝廷からの功が少なかった説、出世が出来なかった説、海賊達に同情した説などがある。天慶2年(939年)に純友は海賊を率いて備前国、播磨国、淡路国、讃岐国などの国府を襲撃し国府の役人を殺害した。翌年の天慶3年(940年)に朝廷は純友に海賊鎮圧の功によって従五位下の位を与え帰京するように命じたが同年に東国で将門が敗死し純友は再び海賊行為を行い国府を襲撃した。同年朝廷は小野好古に山陽道追捕使に任じさせ純友討伐に動き始めた。純友は瀬戸内海各国の朝廷軍を撃破した。天慶4年(941年)に小野好古と源経基は追捕使として純友討伐に動き純友の一味藤原恒利が朝廷側として裏切り純友の拠点は朝廷軍に撃破された。その後純友は大宰府を襲撃したが博多津(博多湾)からの大蔵春実の軍と陸からの好古の軍が包囲し純友は博多津で追捕使と戦うが敗北、伊予国へ逃れるが橘遠保に捕らえられ最終的に獄死した。
事件後
2つの事件は武士が鎮圧し同時に律令国家は崩壊、以降武士が台頭していくようになり武家政権の発端となった。